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「いつも祈るべきであり、失望してはなりません」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 18章 1節〜8節」
18: 1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18: 2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18: 3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
18: 4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18: 5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
18: 6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18: 7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18: 8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」




今日、私は皆さんとともに、『いつも祈るべきであり、失望してはならなりません。』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。 

祈ることは、やさしくはありません。イエス様の弟子たちも、イエス様のところに行って、「主よ、祈りを教えてください。」と請願しました。どのように祈るべきかを知れば、祈りは天の門を開く鍵になり、神様の御手を動かす道になります。しかし多くの人たちが、どのように祈ったら良いか知らないので、迷っています。




第一、祈りを始める方法

第一番目に、私たちが祈る方法を知るためには、まず祈り始めるときに、どのように祈り始めなければならないかを知らなければなりません。人々は神様の御前に出るやいなや、自分の要求を叫び求めます。それでは祈りになりません。祈りは、まず神様の御前に出て来て、自分のことはすべて除けておき、神様を見上げ、その心を神様中心に置いて、神様に感謝と賛美を捧げなければなりません。

「詩篇 100篇 4節」に、『感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。』と記されています。感謝が天の窓を開くようになるのです。そして賛美が、神様の御前に私たちを導いてくれるのです。神の国の窓も開かずに、神様の御前に出ても行かずに、大きな声で叫んでどのような益があるでしょうか。「感謝しながら、主の門にはいれ。」と言われました。天の御国は、感謝が神様の御座の窓を開くのであり、賛美することによって神様の宮に入ることができるのです。

皆さん! 私たちが生きて参りながら、生命を与えてくれるすべての自然環境に対して、深く感謝し、神様に賛美を捧げたことがありますか? そのように私たちに生命を与えてくれる太陽に、毎日毎日感謝してみたことがあるでしょうか? 代価なしに私たちが吸っている空気に感謝してみたことがあるでしょうか? 私たちが飲んでいる水に感謝し、立っている大地と、食物を与えてくださった神様、健康といのちを与えてくださった神様に感謝してみたことがあるでしょうか? 

私たちは、毎日のように太陽のゆえに感謝し、空気と水のゆえに感謝し、大地と食物のゆえに深く感謝し、神様が私たちのために造って下さったすべてのゆえに感謝しなければなりません。

そして、私たちが賛美しなければならないことは、神様は実に、そのひとり子をお与えになった程にこの世を愛され、その御子が十字架に釘付けられ、身を裂き、血を流して、私たちを救ってくださったことを思い、神様を賛美しなければなりません。その十字架によって主は私たちの罪を赦して下さり、義としてくださり、世俗とサタンを追い出してくださり、天国と聖霊を与えてくださり、悲しみを取り除いて喜びを与えてくださり、病を除いて癒しと健康を与えてくださり、呪いを除いてくださり、アブラハムへの祝福を与えてくださり、死と陰府を除いて、天国と永遠のいのちと復活と栄光を与え下さったことを、私たちは賛美しなければならないのです。

そうした後に、我が神の前に、深く悔い改めなければなりません。神様と私たちの間を、私たちの罪がさえぎっていたら、神様は怒り、悲しまれますので、私たちの祈りは答えられません。

「イザヤ書 1章15節〜18節」に、『あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』と記されています。 

それゆえ、私たちが神様の御前にすべての罪をみな悔い改め、告白しなければなりません。神様は、罪を隠すものを憐れんではくださいません。しかし、悔い改めるものを主は赦され、救いの御手を差し伸べてくださるのです。ですから私たちは、神様の御前にいつも悔い改める祈りを捧げなければなりません。




第二、イエス様の喩え

第二番目に、それでは私たちが祈るとき、どのように祈らなければならないでしょうか。それに対してイエス様が教えてくださった御言葉を、よく理解しなければなりません。イエス様は、私たちが祈るときに限界を乗り越える忍耐が必要であると言われました。祈るとき、少し祈ってもいいのではなく、祈り… また祈り… また祈って、後には疲れ果てて倒れたときに、また祈ってその限界を乗り越える、そのような祈りをすれば、天の御座に達すると言うのです。 

主は、次のような喩えを話されました。ある町に不正な裁判官がいました。彼は神様も恐れず、人を人とも思わない裁判官でありました。ところがその町に、力がなく、踏み躙られた、貧しいやもめが一人いました。このやもめが口惜しい目に会ったので、この不正な裁判官の所に行き、その相手を裁いて恨みを晴らしてください、と訴えたのですが、この裁判官は全く無関心でありました。

このやもめが大声で訴えようがどうしようが、裁判官は少しも関心を傾けようとしませんでした。一方、そのやもめは、泣き叫び、わめき、その果てに疲れました。

皆さん、私たちが祈るとき、神様は私たちの忍耐力を試されます。また敵であるサタンは、私たちの祈りを最大限に妨げます。それで、根気強く祈らなければなりません。サタンは、これぐらい妨害したら、もうこの人は気落ちして後ずさりするだろうと思います。神様は、もうこの程度であの者たちは信仰を放棄してしまうのではないだろうか、と考えます。

イエス様は、限界を乗り越える忍耐が必要である、と言われました。祈りに対する神様の応答が遅く、「疑わせる悪霊」の攻撃が激しくなれば、神様の無情さが恨めしくなり、遂には落胆してしまうようになるときがあります。

「詩篇 42篇10節〜11節」に、『私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか。」と私に言っています。わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。』と記されています。昔であろうと今であろうと、私たちは祈りながら疲れ果てて落胆してしまう時があります。しかしその峠を乗り越えれば答えが来るのです。罪悪の峠を乗り越えなければならないのです。挫折し、絶望し、もう倒れるしかないという「峠」を乗り越えなければならないのです。

「ルカの福音書 18章 4節〜5節」には、その不正な裁判官が、『しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに「私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」と言った。』と記されています。このやもめがしつこく、根気強く、継続請願するので、最後にはこの不正な裁判官が、もう堪えられなくなりました。煩わしくうるさく苦しいので、もう「答えてやろう」と言ったのです。限界を飛び越えるまで、忍耐しながら、呼び祈り続けなければなりません。落胆と挫折の峠を超えなければならないのです。

アメリカの世界的な富豪であったロックフェラーは、友人にそそのかされて、金が出ない廃鉱になった鉱山に莫大なお金をつぎ込みました。財産をすべて投資して、その金鉱を買いました。その金鉱に多くの人夫が投入され、掘りに掘ってみましたが、金は全く出てきませんでした。石ころしか出てきませんでした。今やお金はすべて使い果たしてしまいました。金鉱の人夫たちは賃金を払えとデモをし、激しく歯向かって来ました。彼はどうしようもない全くの無一文になってしまいました。

彼は、金鉱の前にひざまずいて叫び祈りました。「神様!私はイエス様を信じたその日から、聖日を聖く守り、神様への10分の1を一度も盗んだことがありません。どうして、私がこの廃鉱にこんなにお金を注ぎ込んで、今は狼狽し、失望するようになったのでしょうか。もう疲れ果てて限界点に達しました。一歩も前に進み出ることができません…。」

その時、彼の心の中に神様が語られたのは、静かにしなさい。落ち着きなさい。平安を保ちなさい。そして、立ってもう少し掘りなさい。「でも神様、今はもう掘る力も、お金もありません。」しかし神様は、今のその限界を飛び越えなさい、と言われました。それで、ロックフェラーはお金を借りて、人夫を動員し、また金鉱を掘り始めました。周囲のすべての人たちが、彼は狂ってしまったと言いました。そんな無謀なことをどうしてするのか? しかしもう少し掘って行くや、突然黒いものが湧き上がり始めました。石油が噴出してきたのです。それで彼は、石油を売ってとてつもない金持ちになりました。




第三、祈る方法

第三番目に、私たちは、祈る方法をはっきりと知らなければなりません。長い時間祈ろうとするとき、「流暢」に祈ろうとする人がいますが、どのようにして流暢に続けて祈ることができるでしょうか。それはできないことです。

「マタイの福音書 6章 7節〜8節」に、『また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。』と記されています。

言葉数を多くすれば、答えられると思い、あらゆる言葉を使って、何度も同じことを繰り返し祈ります。神様は、そうしてはならないと言われました。神様が既に私たちの心の願いを知っておられるので、簡単明瞭に、続けて祈ればいいのです。このやもめの祈りを手本にしなけれなりません。このやもめは、他のことは言いませんでした。「私の相手をさばいて、私を守ってください…。」春が過ぎて夏になり、その夏が過ぎて、木の葉が色づく秋になり…冬になって雪が頭に積もっても、「私の相手をさばいて、私を守ってください…。」と、同じ言葉を繰り返しました。

このやもめは、流暢な祈りのゆえに答えられたのではありません。しつこいほどの、根気強い祈りのゆえに答えられたのです。それゆえ皆さん、祈るとき、流暢に祈りを捧げようとしないで下さい。単純な祈りを、頻繁に捧げてください。

「テサロニケ人への手紙 第一 5章17節」に、『絶えず祈りなさい。』と言われました。願い事を、休まずに祈りなさいということです。その祈りが、「力」がない祈りであってはいけません。強く請い求めるものでなければならないのです。駄々をこねるように、強情を張らなければなりません。子供がお母さんにお菓子をちょうだいと言ったとき、くれなかったら駄々をこねます。それでも駄目なら、寝転んで手足をばたばたさせながら、意地を張り、強情にねだります。私たちも祈るとき、そうしなければなりません。

「ルカの福音書 11章 5節〜8節」を見ますと、『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。』と言われました。

パンをくれ、パンをくれ、パンをくれ、…パン、パン、パン…、大きな声で叫び求めつづけるとき、駄々をこね、意地をはるとき、「私がおまえの友人だから上げるのではなく、うるさくて仕方がないから上げるのだ。」と言いながら、その友人はパンを分けてくれたと、主が言われたのです。私達が主に祈るときも、このように、駄々をこね、意地を張りながら、強情に、根気強く、継続して祈るとき、その祈りは答えられるのです。




第四、信仰をもって求めなさい。

第四番目に、私たちが祈るときには、信仰をもって祈り、疑ってはなりません。「ヤコブの手紙 1章 6節〜8節」に、『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。』と記されています。

風に吹かれて心がなびき、または揺れ動くような軽い信仰の人は、神様が本当に私の祈りに答えてくださるだろうか? どうだろうか? 信じて見ようか? どうしようか? 絶えず心に疑いの風が吹き捲っています。このような人は、神様から答えを頂くことができません。信仰によって祈るためには、神様の御言葉の上に固く立たなければならないということです。

皆さん、「環境」が暴風雨のように襲ってきて、「答えられないよ!」と言います。皆さんの「感覚」が、「だめだよ!」と言います。皆さんの「経験」がこれまた、「だめだよ!」と言うでしょう。私たちは、そのようなことに耳を傾けたら、それだけで心が動揺するようになります。ただ、『この天地は滅び去ります。しかし、わたしの言葉は決して滅びることがありません。』と言われた御言葉の上に立たなければならないのです。

私たちは御言葉を見つめ、御言葉を思い、御言葉を語り、御言葉の上に立って、生きようが死のうが、栄えようが滅ぼうが、御言葉について行かなければなりません。御言葉に立って祈らなければならないのです。『信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての御言葉による。』のです。皆さん、御言葉に立ち、信仰によって祈れば、祈りはみな答えられます。 

「マタイの福音書 7章 7節〜11節」に、『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』と言われました。

私たちの神様は、皆さんが祈り求めるときに答えて上げようと願っておられるのです。しかしサタンは、疑いの火の矢を射まくります。絶え間なく矢に火をつけて、やみくもに私たちの胸を目掛けて射てくるのです。「おい、笑わせるな。おまえはもうだめだ。おまえの祈りは答えられないよ。おまえはもう病気で死ぬんだ。おまえは捨てられたんだよ。おまえの仕事は絶対失敗だぜ…。」サタンはいつも、ひどく否定的に皆さんの心に火の矢を打ちこんでくるのです。皆さん! 悪魔の疑いの火の矢を受け入れてはなりません。

アブラハムのようにしなければなりません。「ローマ人への手紙 4章19節〜22節」に、『アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。』とあります。

ある姉妹さんが訪ねて来て、「牧師先生、私はいくら信じようとしても、心の中に信仰が生じません…。」と言うのでありました。それは嘘です。悪魔に騙されているのです。信仰は、感じることとは別のものです。信仰は心の決断です。聖書には、「各々に、量りに応じて信仰を分け与えて下さった」と述べられています。皆さんが感じようが感じまいが、神様は皆さんに信仰をその量りに応じて分け与えて下さったのです。信仰を感じようとしてはいけません。

皆さんが決心をして、信じることに決めたなら、目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものがなく、また何も感じられなくても、そのまま信じることです。ひたすらに信じることです。そして、落胆させる思いを拒否しなければなりません。落胆してはいけないのです。落胆することは、まさに両手を上げてサタンに降伏することを意味します。聖書に、『目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。』と記されています。動揺してはいけません。

落胆は、絶対禁物です。どんな環境によるとしても、私たちは希望を持って前進しなければなりません。私たちのキリスト教の福音は、希望です。私たちの神が与えてくださるものは、希望です。落胆すれば、その人はその時から破滅に至るのです。「ガラテヤ人への手紙 6章 9節」に、『善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。』と記されています。

「へブル人への手紙 12章 1節〜2節」には、『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』とあります。

いつもイエス様を見上げて、落胆したり、後ろに退くことがないようにしなければなりません。ひたすら信じ、忍耐しなければならないのです。皆さん、忍耐するということは重要なことです。祈り、呼び求めたなら、それからは神様の前に忍耐することです。ひたすらに信じ、絶対に退くことがあってはなりません。全力を尽くして忍耐するのです。信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。

こんにち、私たちが試みと患難に遭い、窮地に置かれるとき、それに打ち勝って行くことができる武器は、ただ信仰しかありません。隣人も、助けてくれることができません。親戚も、国も、助けてくれることができません。しかし、皆さんを助けて下さる神様がおられます。『私は山に向かって目をあげる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた神様から来る。』と、詩篇の記者は記録しています。

従って、神様のもとに出て行かなければなりません。その道は、祈ること以外にはありません。他には道がないのです。

「ルカの福音書 18章 7節〜8節」に、『まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。』と記されています。

夜昼構わずに、祈ることです。それでは、夜も祈り、昼も祈り、祈り叫ぶとき、どのように祈り叫ぶべきでしょうか。それは心に徹底した願いと望みを持って祈らなければなりません。遊び半分に祈ってはいけません。適当にする祈りではいけません。恨み骨髄に徹したような、生死をかけた、そのような祈りでなければなりません。

また、祈りを捧げるときに、忍耐し、落胆せず、辛抱の限界を乗り越え、意地を張り、強情に、駄々をこねるみたいに、叫び、祈り、信仰によって呼び求めるとき、皆さんは勝つことができるのです。私たちの祈りが、すぐに答えられないからといって落胆してはいけません。

私たちの祈りを妨げる敵悪魔が、至るところで、必死になって祈りを妨げています。また、私たちの祈りが真実であり、まことの信仰によるものであるか、どうかを、神様が試しておられます。私たちの祈りがこのような試練を通過すれば、その時から、信仰は運命と環境と歴史を変化させるのです。想像することもできなかった、理解を超えた大いなることが、私たちの暮しの中に現れるようになるのです。




お祈り

聖く、全知全能であられ、栄光に満ちておられる、我が父なる神様! 余りにも多くの人たちが祈る方法を十分に知っておりません。祈る方法を知らないために、神様の満ち溢れる恵みがあるのにも、それに与かることができず、飢えに飢えて死んで行きます。愛であられる我が天のお父さま! 放蕩息子が、私の父の家には食べ物がたくさんある、と言いました。私たちのお父さまであられる神様の家には、食べ物が無尽蔵に備えられています。たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康で、そして豊かに与えてくださる神様の恵みが、そこに備えられています。

全知全能であられるお父さま! 私たちがお父さまの家に行く途中には、サタンが待機していて、あらゆる妨げを欲しいままにしています。私たちの信仰を試される神様の試みも、そこにあります。それらを通過して行くために、今日、私たちに聞かして下さったメッセージの通り、私たちが心に武装をして生きて行くことができるように助けてください。

『後ろに退けば、私の心は喜ばない。義人は信仰によって生きる。しばらく後に、来るべき方が来られる。遅れることはない。』と主は言われました。我がお父さま! このような決断がある信仰を持つことができるように、助けてください。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン!