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「強盗に襲われた者の隣人」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 10章30節〜37節」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」




今日、私は皆さんと一緒に、『強盗に襲われた者の隣人』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

こんにち、私たちは暴力が乱舞している世の中に暮しています。子供たちが好んで見る漫画やビデオも、暴力物が主をなしており、映画もこれまた、同類です。こんにちの我が社会は、暴力で傷ついた社会です。言語暴力があるかと思えば、至る所で欲しいままに行なわれている「いじめ」という暴力、政治的暴力、武力による暴力等がそれです。

本当に、「心が許せる」、そして「拠り頼む」ことができる隣人を持つことは、非常に難しいです。このような生活の現場の中にありながら、私たちが「まことの隣人」を発見することが、果たして可能でしょうか? イエス様は、この「まことの隣人」に関して今日、言われました。




第一、強盗に襲われた人

第1番目に、「強盗に襲われた人」に関するお話しがあります。その内容は、ある人がエルサレムからエリコに下って行く道で強盗に襲われ、持ち物全部を奪われたうえに、殴られて血みどろになり、半殺しにされました。

この人の悲劇は、エルサレムを離れてエリコに下って行った、と言うことにあるのです。皆さん、これは確かに「堕落」を意味します。エルサレムには神様の聖殿があり、礼拝があり、讃美と、そして信仰がありました。ところがこの人は、神様の聖殿に背を向け、礼拝と讃美と信仰を捨てて、世俗であるエリコに向かって下って行く途中でありました。

即ち、肉の欲、目に欲、この世の自慢を追求して世俗に下って行きました。それゆえに、強盗に襲われるしかありませんでした。それで、持ち物を全部奪われ、殴られ、血みどろになって、道端に倒れるようになったのです。この話しは、私たち人類が、こんにち苦難に遭っている、その理由を説明してくれるものです。

エデンの楽園を、アダムとエバが離れて行きました。エデンは神様がおられるところであり、聖なる住まいであり、礼拝と讃美があるところであり、祝福があるところです。アダムとエバが悪魔の誘惑に陥って、エルサレムのようなエデンを背にして、世の中に向かって下って行きました。世の中には、神様がおられません。世の中には、欲望と貪欲が満ちています。憎悪と嫉妬と憤怒と怨恨が満ちているところが、この世の中です。

アダムとエバが、このエルサレムのようなエデンを離れ、世の中に出てきて、悪魔からひどい目に会ったのです。盗み、殺し、滅亡される、そのような苦痛の中に落ちこむようになったのです。それでアダムとエバは、こんにち自分たちの子孫と一緒に、血みどろになっています。霊は死に、心は怨恨、嫉妬、憤怒、憎悪で散々に引き裂かれました。肉体は病気にかかり、生活は呪われていばらとあざみで血みどろになり、絶望と挫折の中で暮してから、地獄に落ちる、悲劇的な「強盗に襲われた人生」になってしまったのです。

皆さん! こんにち、神様を知らずに暮しているこの世のすべての人たちは、一人も漏れなく「強盗に襲われた人たち」なのです。それで彼等は、神様から戴いた貴重なものをみな失ってしまい、どこから来て、なぜ生きており、どこに行くのか、目的も方向もなく生活しているのです。このように、「強盗に襲われて、血みどろになっている人」を誰が救って上げることができるでしょうか。




第二、まことの隣人

第2番目に、このお話しの中に、「強盗に襲われた人」のそばを通って行く人に関する話しが記録されています。その強盗に襲われた人のそばを、いちばん先に通って行った人は「祭司」でありました。皆さん! 祭司とは、律法を遵守し、律法を保存し、律法を教える人です。ところがこの祭司が「強盗に襲われた人」を見たあとに、厳しく叱りつけ、そして頭を軽く振ってから、そのまま通り過ぎて行ってしまいました。

なぜ、祭司がそのまま通り過ぎて行ってしまったでしょうか? 皆さん! 律法は、私たちを助けてくれるために与えられたものではありません。律法の属性は、罪を捕えるために与えられたのです。律法は罪を暴露します。そして、暴露されたその罪を厳しくさばきます。従って律法は、病気にかかり、罪を犯し、弱々しい人間を、助け、生き返らせ、支えてくれるのではなく、過ちを指摘し、罪を暴露し、その罪に対して厳格に、峻厳なさばきを下すのが律法の本分です。

それで祭司は、律法を遵守する人として、強盗に襲われ血みどろになって倒れている人を見たとき、その人に助けの手をさし伸ばすことができません。その人を見て、厳しく叱りつけるしかありませんでした。「どうして、エルサレムを離れてエリコに下って行ったのか!」「どうして、神様に礼拝を捧げ、仕え、讃美し、祈りと信仰があるところを離れて、世俗に向かって下って行ったのか!」「あなたは罪人だ。けしからん。悪者め…!」このように叱りつけ、さばき、そしてそのまま通り過ぎてしまったのです。

こんにち、人たちは律法の行ないによって義と認められたいと思っています。しかし、『律法の行ないによって義と認められる者は、一人もいない』のです。神様が、シナイ山でイスラエルの民たちに「十戒」を与えられたのは、彼等が守ることができるので与えられたのではありません。

堕落した人間たちが高慢になって、自分たちの力量で救われることができると自負しているので、また人間が自ら正しく生きることができると自負しているので、人類を代表してイスラエルを選ばれ、イスラエルに律法を与えられたのです。その律法を活かすためではなく、如何に人間の罪悪が深く、汚れているか、そして如何に醜悪なのかを暴露するために与えられたのです。

人間を救うことができる律法を与えられたのであったら、救いが律法によったでしょう。しかし、律法は救うがためのものではなく、人間の罪悪を暴露させるためのものです。イスラエルの民たちは律法を与えられてから、ただの一人も律法を守った人がありません。聖書に、『すべての人は、罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができない。』と記されています。

イスラエルの民たちが律法を守らず、罪を犯して、神様から厳しい審きを受けたとき、彼等の避け道は、「いけにえ」を捧げることしかありませんでした。「罪のためのいけにえ」とか、「罪過のためのいけにえ」とか、獣をほふって代わりに血を流してから、罪の赦しを得ることができました。

ここで神様が教えられたのは、人間がいくら律法の行ないによって救われようとしても、救われる道はなく、律法の行ないを通して義と認められることも決してできない。結局は、誰かが血を流して、死んで、罪を贖ってくれなければならない、ということでありました。

獣の血は、一時的に罪をおおうことはできても、永遠に罪を赦すことはできません。数多い獣が死に、血が川水のように流れましたが、このすべては、将来、私たちのために、私たちを律法から救い出してくださる神様の御子イエス・キリストが、私たちのための「いけにえ」となって、十字架の上で身を裂き、血を流すようになることを「預言的」に、「象徴的」に見せてくれたことに過ぎないのです。

ですから、こんにちも、皆さん! 私たちが、律法を通して救われることができると言う希望を持つことは、あまりにも愚かなことです。今、ここにおられる皆さんの前に、神様が律法をもって審き、あの「スクリーン」に皆さんの犯した罪をすべて、一つ残らず現われるようになさるとしたら、ここにそのまま座っておられる方は一人もおりません。

皆さん! 他人を律法をもって罪に定める人は、全く同じ律法によって自分も審かれ、罪に定められます。『律法の行ないによって義と認められる者は、一人もいない』のです。ですから、律法に希望をおいてはなりません。律法は絶対に皆さんを救うことができません。

それで祭司は、この強盗に襲われて血みどろになり、倒れて死にかけている人を少しも助けて上げることができませんでした。このように、こんにち、皆さんが心配、懸念、不安、焦燥、絶望、罪を犯し、病気に罹り、失敗し、失望して倒れたとしても、律法は皆さんを助けて上げることができません。律法は、皆さんを審くだけなのです。

その次に、暫くしてからレビ人が一人、足早に下って来ました。レビ人も、血みどろになって倒れている人を黙って見ていましたが、頭を左右に振ってからは、そのまま通り過ぎてしまいました。レビ人は、儀式を準備し執行する人です。聖殿に来て、聖殿のすべての器物をそれぞれの定められた位置に整理し、それらを洗い、磨き、儀式が挙げられるときに備えて整理する、儀式を執行する人なのです。

皆さん、儀式とか形式の中には生命がありません。このレビ人は儀式と形式をつかさどる人です。強盗に襲われて血みどろになった人に、指一本触れずにそのまま通り過ぎて行ってしまいました。

ところが、もう少し経ってから、あるサマリヤ人が家畜に乗って通りかかりました。そして、この血みどろになって倒れている人を見て、かわいそうに思い、家畜から降りて傷付いた人を抱きかかえ、傷にオリーブ油とぶとう酒を注ぎ、包帯をして上げてから、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行きました。

このサマリヤ人がした事をご覧ください。祭司のように叱りもせず、レビ人のように形式的・儀式的にただ見て通り過ぎることもしませんでした。このサマリヤ人は、強盗に襲われて殴られ、半殺しにされて、血みどろになって倒れている人をかわいそうに思いました。そして、傷に油とぶとう酒を注ぎ、着物を裂いて包帯をして治療して上げました。

このサマリヤ人が、誰を象徴しているでしょうか。この人は、モーセの弟子でもなく、レビ人のように儀式を執行する人でもなく、この善良なサマリヤ人はまさに、私たちの主イエス・キリストを象徴するのです。イエス様がこの世に来られたのは、私たち人類をかわいそうに思われて来られたのです。私たちを審くためでもなく、私たちの生活を荘厳な儀式で飾るためでもありません。

イエス様は、私たち人類をかわいそうに思って、私たちを癒し、生き返らせて下さるために来られました。私たちの神様は、イエス・キリストを通して私たちに慈愛とあわれみを施そうとしておられるのです。聖書に、『主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方である。』と記されています。神様は、皆さんと私にあわれみを施されます。

なぜ、子供が父母を信頼するのでしょうか。父母はいつも、子供をあわれみます。子供は父母に対してそうではありませんけれども、父母はいつも、子供を見るとき、あわれみが心の中に生じます。このように、神様は私たち人類をあわれまれて、イエス・キリストをこの世に遣わされ、イエス・キリストを通して私たち人類を助けて上げようと願っておられるのです。

あわれんで下さるので、神様は皆さんを罪に定めません。かわいそうに思ってくださるので、神様は形式的に見ただけで通り過ぎることをなさいません。気の毒に思ってくださるので、神様は、私たち人類を具体的に助けて上げようと願っておられるのです。

イエス様は、私たちをかわいそうに思われて、私たちのそばに来られました。そして、私たちに代わって十字架を担われました。私たち人類の罪と悪、悲しみと絶望をすべて担われて十字架に上られ、その身を裂き血を流されました。そうしてから、その身を裂き血を流された代価として、聖霊を私たちに注いでくださり、その尊い血潮で私たちを覆ってくださり、その恵みの包帯で私たちを介抱してくださるのです。

イエス様が、善良なサマリヤ人のように私たちに油を注いでくださいます。神様の聖霊の油を私たちに注いでくださらなかったら、私たちは絶対にイエス様を救い主として悟り、救われることができません。私たちはみな、霊が死にましたので盲目であり、聾であり、私たちの心は何も悟ることができません。

このような私たち人類に、神様が聖霊の油を注いでくださることによって、霊の目が開かれ、耳が聞けるようになり、心が悟るようになって、イエス・キリストを救い主として信じることができるようにしてくださったのです。聖書に、『聖霊によらないことには、イエスを主と呼ぶ者はいない。』と言われました。皆さんに、主が聖霊を与えられ、油を注いでくださったので、皆さんがイエス様を信じるようになったのです。

そして、イエス様を信じたら、主がその尊い血潮で私たちを覆ってくださるのです。イエス様が十字架で流された尊いその血潮は、皆さんと私に代わって流された血です。その血潮を通して、主は私たちの過去の罪一切をすべて赦してくださり、将来の罪一切も赦してくださって、永遠に私たちの罪をすべて無いものにしてしまわれたのです。

従って、キリストの血潮の中には、私たちへの赦しと義があるのです。その血潮を通して、敵悪魔と世俗は追い出され、天の御国と聖霊が私たちの中に来てとどまるようになるのです。皆さんがイエス・キリストの血潮を信じたので、こんにち、皆さんの中から世俗が追い出され、聖霊が来ておられ、天の御国が臨んでおられるのです。それで、天国の民となったのです。

主は、血だけを流されたのではありません。その御体を裂きました。それを包帯にして私たちを介抱してくださったのです。キリストは、ご自分の御体を裂いて包帯を造られたのです。そうして、私たちの傷を介抱してくださいました。

心の傷を介抱してくださって、心配、懸念、不安、焦燥、絶望、悲哀をすべて取り除いてくださり、喜びの肉芽が盛り上がるようにしてくださいました。からだを介抱してくださって、色々な疾病と苦しみを癒してくださり、私たちの生活を介抱してくださって、いばらとあざみから解放させてくださり、呪いと貧乏から私たちを開放してくださったのです。

ですから、イエス様は善良なサマリヤ人として、十字架に釘付けられ、身を裂き血を流してくださることによって、私たち強盗に襲われて血みどろになり、この世の道に倒れた私たちを抱きかかえて、私たちを生き返らせてくださったのです。イエス様が言われました。『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』と。




第三、宿屋の主人に渡した「デナリ二つ」

この善良なサマリヤ人が、強盗に襲われて半殺しに会った人を自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行った、と記されています。私たちが今から考えてみたいことは、この宿屋が何かと言うことです。

この宿屋とは、教会のことです。皆さん! 我が韓国には、約五万の宿屋があります。私たちの"ヨイド純福音教会"も、天国に行く途中にある宿屋です。主が、宿屋にその人を連れて来て介抱してやってから、宿屋の主人に「デナリ二つ」を渡しながら、『介抱して上げてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』と言われました。

主が、この世から離れて行かれるときに、人たちに何を残してくださったでしょうか。主は、田畑1坪も、着物1着も与えてくださいませんでした。主が宿屋に、「デナリ二つ」を取り出して与えて下さいました。これは、聖書と聖霊のことです。主が、私たちの宿屋である教会に残してくださったのは、この神様の御言葉と、天から降りて来られた聖霊さまなのです。私たちには今、神様の御言葉があり、この教会の中には神様の聖霊が来ておられるのです。

主は、御言葉と聖霊を与えて下さりながら、これを持って治療しなさい、と言われます。こんにち、私たちを癒し、生き返らせてくれることができる力は、御言葉と聖霊の力以外にはありません。世の中の知識とか学問とか哲学では、絶対に私たちを生き返らせることができません。世の中の人間の知恵や知識は、私たちに何の生命も与えてくれることができないのです。

ひとえに、天が崩れ地は消えても一点一画も変わることがない「御言葉」が、私たちを癒すことができます。そして、聖霊がこの御言葉を持って私たちのたましいの中に入って来て、私たちのたましいを生き返らせ、心を変化させ、生活を癒し、神様の栄光に与からせてくれるのです。それで、主は「デナリ二つ」を渡してくださいました。御言葉と聖霊で、強盗に襲われた人を顧みて下さいました。『この人が、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、そして、いのちを豊かに得るようにして上げなさい!』と。

そうしてから、『…もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』と言いました。皆さん! どのような費用がかかると言うのでしょうか。私たちが主の事業をするためには、たくさんの費用がかかります。何故かと言えば、教会を建て、教会を運営するためにはたくさんの費用が要ります。

「マタイの福音書 6章20節〜21節」に、『自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』と記されています。私たちは、教会を建てる、教会を運営するために、たくさんの費用が必要です。

この費用は、私たちが納入したらするほど、主が30倍、60倍、100倍にして返してくださいます。私たちが天国に行って、主から返していただく事ができる道は、神の御国のために、或いは「十分の一」を差し上げ、または「献金」をして、教会のために費用を充分にし、その宿屋を立派に整備する、そしてますます多くの人たちを生き返らせることができるように協力するのが、「費用を出す」ことです。その他に、宣教事業のために私たちが物質を捧げ、献身することも、「費用を出す」ことになるのです。

「コリント人への手紙 第一 9章 6節〜7節」に、『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』と記されています。

私たちの主は、宣教事業のために費用をかけることを願っておられます。私たちの教会では、毎年、宣教事業を展開しています。私たちは、社会奉仕のために、また救済のために費用をかけなければなりません。今後とも、宣教事業のために費用を喜んで差し上げる皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福します。

「箴言 11章24節〜25節」に、『ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。』「コリント人への手紙 第二 9章 9節〜10節」には、『「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。』と記されています。

ですから、私たちは社会に出て行って、キリストの御名によって費用をかけながら、たくさんの人たちにキリストの救いの福音が伝えられるようにしなければならないのです。

皆さん! 私たちが「北朝鮮の同胞助け運動」を展開しております。「愛の後援金」を出してくださった聖徒さんの数は"36,702名"、募金金額が"2億5千2百万9千ウオン"でありました。それで私たちが、「とうもろこし・39トン、肥料・1,800トン」を北朝鮮に送りました。これも、北朝鮮で苦しんでいる私たちの同胞たちに、私たちが費用をかけて「キリストの愛の御手」を施した事業の一つです。北朝鮮の強盗に襲われた人たちを助けることに、私たちはますます献身しなければならないのです。

また、教会は教育事業のために費用をかけなければなりません。教会が費用をかけて、多くの後世たちをキリストにあって教育させることによって、この社会を天の御国に変化させることができます。それで私たち"ヨイド純福音教会"では、「韓世大学校」を建てました。また、アメリカには「ベテスタ大学」を、そしてソウルには今の「純福音神学院」を建てて運営しています。これは、教育を通して多くの人たちに天の御国を宣べ伝えることができるようになるからです。

それだけではありません。私たちは、周囲の「病気に罹って死にかけている人々」のために、絶え間なく医療事業も展開して行かなければなりません。「コリント人への手紙 第二 9章 8節」に、『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』と言われました。神様が、私たちに恵みを与えて下さるのは、私たちが費用をたくさんかけて、良いわざを溢れるようにしなさい、としてそうなさるのです。

皆さん、私たちの"ヨイド純福音教会"では、古紙収集もし、古い着物集め、銅貨集め、農漁村教役者家族助け運動…等、愛の運動を展開しています。古紙収集運動で私たちが「心臓病の子供たち」を助けて上げたのが、3千名以上に及びました。このように私たちは継続して、病気に罹って苦しんでいる人たちに、「愛の費用」を使わなければなりません。

強盗に襲われた者のまことの隣人は、イエス様であり、このイエス様の事業のために費用を惜しまずに負担しなければならないのは、イエス様と一緒になった「まことの隣人である私たち」なのです。今日、この時間、皆さんと私は、キリストと共に「まことの隣人」にならなければなりません。

イエス・キリストによって、私たちが救われました。私たちが血みどろになって、この世の中で死にかけていた時に主が来られて、私たちを生き返らせてくださいました。ですから、私たちはイエス様に仕えながら、こんにち強盗に襲われて血みどろになった人たちを訪ねて行ってキリストの福音を伝え、彼等のために費用をかけて愛を注ぎ、天の御国を拡張する働きをしなければなりません。そうするとき、私たちの教会が使命を果たし、神様に栄光をお返しすることができるのです。

「私だけ、救われたら良い!」「私だけ、豊かな暮らしをしたら良いんだ!」「ほかの人は死のうがどうなろうが、私とは関係がないんだ!」 そうして、祭司のように律法主義者になって、審くだけで通り過ぎて行き、レビ人のように形式的に同情のしぐさだけをして見せて通り過ぎて行き、助けをほどこさなかったらどうなるでしょうか。

私たちは、イエス・キリストの人となって、「善良なサマリヤ人」のように心に慈しみとあわれみをもって、審く代わりに愛をほどこし、儀式と形式の代わりに助けの温情をほどこさなければならないのです。私たちは力を尽くして、イエス・キリストを伝え、聖霊とキリストの尊い血潮のみわざを伝えなければなりません。

また、キリストの愛を教えて上げながら、世の人たちがみな、天の御国に行く宿屋に集まって、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、そしていのちを得るにしても溢れるばかりに得るように、主と共にたくさんの費用をかけて、天下万国に福音を伝える皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願します。




お祈り

愛であられ、聖き、天のお父さま! こんにち、私たちはまことの「隣人」を見出すことが非常に難しいです。すべてが皆、祭司となって審くだけであり、またはレビ人になって儀式と形式を執行するだけです。心から私たちを愛し、私たちを癒して上げようとする人は、なかなか見当たりません。

全知全能であられる神様! イエス・キリストは、善良なサマリヤ人、まことの救い主として来られて、私たちに代わって十字架に釘付けになられ、身を裂き、血を流して、私たちのすべての罪を贖って下さり、聖霊を注いで下さって私たちを新しく生まれさせ、血潮で罪を洗いきよめて下さり、身を裂いてそれを包帯にして私たちを介抱して下さいました。その上に、私たちを祝福して下さり、永遠のいのちを得るようにして下さいました。有り難うございます。そして、イエス様が、私たちと共におられ、私たちを懐に抱いて下さり、私たちを顧みて下さって有り難うございます。

我が父なる神様! 主が与えて下さった御言葉を私たちが力強く胸に抱いて、聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼みながら生きて行けるように助けて下さい。さらには、主の福音を天下万国に伝える私たちとなりますように、導いて下さい。私たちの主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!