教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「私も変化されるでしょうか」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 2章 1節〜11節」
2: 1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2: 2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2: 3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2: 4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2: 5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2: 6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2: 7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2: 8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2: 9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。




今日、私は皆さんと共に『私も変化されるでしょうか?』という題目で恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

「ヨハネの福音書 2章 1節〜11節」を見ますと、イエス様がカナの婚礼の宴会に行かれて、水でぶどう酒をつくられた奇跡に関する記録があります。ユダヤ人たちは結婚することになったら、花婿が友たちをつれて花嫁の家に朝から行き、結婚式をあげた後、午後には花嫁をつれて自分の家に帰って来て、その時から宴会を始めます。ところが、その日1日だけ宴会を催すのではなく、1週間もずーっと食べたり、飲んだり、歌ったり、踊ったり…、ある時は1週間以上も宴会を続ける場合があります。

ところが、カナの婚礼の宴会がたけなわな時に、大変なことが起こりました。ぶどう酒が切れてしまったのです。それで宴会の主催側では大騒ぎになりましたが、直ぐにぶどう酒を用意する方法が全くありません。そこには、イエス様とイエス様の母マリヤと弟子たちも招かれて来ておりました。

誰かが、イエス様の母マリヤにお願いするので、イエス様のお母さんがイエス様のところに来られて、「ぶどう酒がありません」と言いました。すると、イエス様が厳粛な表情で、『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』と答えられました。

どうして、お母さんに向かって「女の方」と言ったのでしょうか。皆さん、イエス様は神様の御子です。マリヤの身体を通してこの世に来られたお方です。マリヤがイエス様に頼んだところ、イエス様がすべて聞き叶えて下さった、と言う噂が立ったら、こんにちある宗教でのように、主よりもマリヤをより重視し、マリヤを通してイエス様が来られたと言う間違った思想が伝播されるのを主は恐れたのです。それで、断呼として『女の方。あなたはわたしと何の関係があるのでしょう…。』と言われ、そして『わたしの時はまだ来ていません。』と答えられました。 

この時、マリヤは手伝いの人たちに、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と頼みました。暫くしてから、イエス様が手伝いの人たちに、そこに置いてあった水がめ六つを指しながら、『水がめに水を満たしなさい。』と言われました。縁まで水をいっぱいに満たすや、イエス様が『さあ、今汲みなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。』と言われるので、その通りにしたところ、宴会の世話役がその水を飲んでみてからびっくり驚きました。なぜかと言えば、普通の宴会では初めには良いぶどう酒を出し、後には悪いぶどう酒を出すものですが、この家では後々までも良いぶどう酒を出したからです。

皆さん! ここでイエス様が「水を変化させてぶとう酒をつくられた」偉大な奇蹟を施されました。この奇蹟を通して、私たちが教わるべき教訓が相当にたくさんあります。




第一、足らないもの

皆さん、私たちにはこの世を暮らしながら、いくら人間的に努力し労苦しても、足りないものがそれこそいくらでもあります。人間は、歴史があって以来、生存と幸福に必要なものを取得し、満たそうとして手段・方法を選ばずに努力して参りました。しかし大多数の人々は、いつも食糧が足りず、衣服が足りず、住居が足りず、健康が足りず、お金が足りず、幸福が足りず…、どこに行っても足りないものばかりです。この「足りない暮らし」は、正常的な暮らしではありません。

元来、神様がアダムとエバを造られた時に、まず天と地と世界とその中のすべてのものを造られました。足らないものが何一つないように備えて下さった神様です。ですから、神様が私たちのすべてをこまかいことまで知っておられ、それからすべてのものを備えて下さったので、神様と共に暮らす間は足りないものが何一つあるはずがありません。

ところが、神様から離れた後から、アダムとエバの生活には限りなく不足が生じました。堕落する前には、神様が親しくすべてを備えてくださったために、まったく不足を知らなかったのですが、神様に背を向けて人間が自分の力で生きて行こうとした時から、すべてが不足するものばかりでありました。

「エレミヤ書 2章13節」に、『わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。』と記されています。人がいくら水ためを掘っても、水がたまりません。いつも不足します。

この「カナの宴会」の場でぶとう酒が足りなかったことは、一つの象徴的な事件です。私たちがどんなに努力しても、足りないものが余りにも多いです。政府も足りないものが余りにも多く、社会団体も、企業も、家庭も、生活も、努力はしますが、ここも足りない、あそこも足りない、ここも壊れた水ため、あそこも壊れた水ためなのです。この不足をどのようにしたら満たすことができるでしょうか?

イエス様の母マリヤは、婚礼の宴会の家でぶどう酒が足りないと言われた時、あわてませんでした。イエス様はマリヤの身を通してお生まれになり、マリヤはイエス様と共に暮らして来たので、イエス様を通してみわざを施される神様の摂理を数多く知っておりました。それで、人たちの力でそれを解決しようとせずに、すべてを充分に満たすことがお出来になるイエス様に頼まなければならない、と言うことをマリヤはよく知っておりました。

それで、マリヤは手伝いの人たちを呼んで、「イエス様が何と命じようと、その通りにしてください。質問したりせずに、言われることを何でもして上げてください。」と頼みました。イエス様はどんな環境にあっても、問題を解決する方法を知っておられます。『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』今、私たちと共におられるイエス様も、私たちがどのような情況にあろうと、問題をどう解決すべきか、ご存知なのです。

人々は、主を探し求めずに自分の知恵や手段や方法に拠り頼んで東奔西走してからは、失敗してしまいます。主は、人々がご自分を探し求めることを待っておられるのです。

「ピリピ人への手紙 4章19節」を見ますと、『また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。』と記しています。主は、満たして下さる神様なのです。

主から離れた人生はいつも足りない生活をし、いつも"空いた器"を持って暮らします。ところが、ここカナの婚礼の宴会の場にはイエス様が来ておられ、イエス様はその問題をどのように解決したら良いか、を知っておられますので、マリヤがキリストにお願いしました。こんにちも、皆さんの生活の中で何かが不足したら、皆さんがイエス様に、解決策を講じて下さるよう、お願いしなければなりません。

イエス様は、皆さんの問題をどのようにしたら良いか、良く知っておられるのです。




第二、清めの「石の水がめ六つ」

この家には、「清めの石の水がめが六つ」置いてありました。「水がめ」は象徴的な意味があります。人がこの世を暮らす間は、「空いた水がめ」のようなものです。この清めの水がめは、もともとユダヤ人たちが水を満たして置いて、手足を洗って神様に礼拝をささげ、手足を洗って食事をし、手足を洗って宴会にも参加する「盥(たらい)」のことです。

ところが、そこに「清めの石の水がめが六つ」ありました。「清めの水がめ」には、中が清潔であってこそ水を満たすことができます。中に、虫とか土くれとか、汚いものがあっては水を満たしても用をなしません。イエス様が、その『水がめに水を満たしなさい。』と言われました。「水がめ」がきれいに洗われていて、清潔であったからなのです。

この「水がめ」は、まさに皆さんと私を象徴するものです。私たちの「清めの石がめ」である、私たちの心が清潔であってこそ、主が満たして下さることができるのです。それで私たちの主イエス・キリストは、私たちにまず「祈りなさい。」と言われるのです。主は、私たちが祈ったら、応答して下さいます。私たちに満たして下さる前に、まず『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』と仰せられ、私たちが悔い改めたら、良いもので満たして下さるのです。

「テモテへの手紙 第二 2章21節」に、『ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。』と言われました。

それでは、私たちがどのようにしたら自分自身をきれいにすることができるでしょうか? 皆さん、神様の「戒め」は、私たちが汚れているか、きれいか、映して見せてくれる「鏡」です。鏡を見ないことには、自分の顔に何がついているか,ついていないか、わかりません。鏡に映して見なければならないのと同様に、こんにち、神様の戒めは、私たちを聖潔にするために、私たち自身を映して見ることのできる「霊的な鏡」なのです。ですから、戒めに自分自身を映して見て、私たちは自分自身を自ら聖潔にしなければなりません。 

「詩篇 119篇105節」に、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』と記されています。神様の御言葉は、私たちの足のともしびであり、私たちの行くべき道を照らしてくれる光なのです。ですから、私たちはいつも主から満たしていただく前に、私たちの水がめをまず清潔にするために、「十戒」を通して自分自身を映して見なければなりません。

『あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』ほかの神々があったことを悔い改めなければなりません。『偶像を拝んではならない。』偶像を拝んだ罪があるなら、悔い改めなければなりません。『神様の御名をみだりに唱えてはならない。』神様の御名に栄光を帰さずに、いたずらに唱えた罪があるなら、悔い改めなければなりません。『安息日を聖なる日とせよ。』主の日を聖く守らなかったなら、その罪を悔い改めなければなりません。

『あなたの父と母を敬え。』父母を敬わず、怨み、不平を呟き、嘆かせ、憎んだなら、悔い改めなければなりません。『殺してはならない。』人を殺すことまではしなかったにしても、殺したい程に憎んだなら、その罪を悔い改めなければなりません。『姦淫してはならない。』淫乱・放蕩な暮らしをしたなら、神様の前に完全に告白し、深く悔い改めなければなりません。『盗んではならない。』神様への十分の一を盗んだり、隣人のものを盗んだなら、すべて悔い改めなければなりません。

『あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。』隣人に対して嘘をついたなら、これも深く悔い改めなければなりません。『あなたの隣人のものを欲しがってはならない。』隣人に良いことがあるとそれを不愉快がり、何とかその人をこき下ろそうとして、あること、ないこと、でっち上げて悪く言いふらす、このような罪も悔い改めなければなりません。

私たちの「清めの石がめ」が、きれいでなければなりません。汚い石がめには、神様は水を満たして下さいません。故に、私たちの清めの石がめをイエス・キリストの御名によってきれいにし、キリストの十字架の血潮で私たちが洗い清められなければなりません。イエス様の十字架の聖なる血潮で洗い聖めて下さい、と祈らなければならないのです。

「ヘブル人への手紙 9章22節」に、『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』と記されています。「ヨハネの手紙 第一 1章 7節」にも、『しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』とあります。

また、「9節」にも、『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』と記しています。ですから、私たちが悔い改めさえすれば、キリストの十字架の血潮で私たちが洗いきよめられて、一度も罪を犯さなかった人のように、そのようにして下さるのです。




第三、水を満たしなさい

イエス様は、『水がめに水を満たしなさい。』と言われました。こんにち、「水」は何を指すのでしょうか? 皆さん! 「水」は聖霊を言うのです。

「ヨハネの福音書 7章37節〜39節」に、『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』と記されています。

この"石がめに水を満たしなさい。"と言われたことは、皆さんと私に"聖霊で満たされなさい"ということです。私たちが、私たち自身と、私たちの生活に変化をもたらすためには、神様の聖霊を認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼んで、"聖霊充満になりなさい"と言うことです。

私たちが、イエス様を救い主として受け入れたら、聖霊が私たちに臨んで下さって、私たちが神様を「アバ、父」と呼ぶようにして下さるのです。しかし、皆さんがその程度で終わらずに、もっともっと祈って、聖霊充満に与かるようになられますよう、主の御名によって祈願します。

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』と聖書に記されています。「他国のことば」即ち、異言で話し出すことができるまでに、皆さん! 聖霊充満になって下さい。

異言とは、まさに聖霊が充満に臨んで満ち溢れる音なのです。私たち皆に聖霊様が臨んでおられますが、聖霊が満ち溢れたら溢れ出る音が出ます。その溢れる音がまさに異言なのです。私たちは、異言の溢れ出る音が聞こえるまでに聖霊充満を切に祈り求めて、私たちの「清めの石がめ」の縁まで「水」が満たされるようにしなければなりません。

私たちが、神様から変化させていただくためには、私たちが聖霊充満になるように熱心に祈らなければなりません。誰でも、聖霊に満たされるためには主の御名によって熱い心で切に祈り求めなければなりません。そうすれば聖霊充満になれます。

私たちの教会の、ある一人の実業家の聖徒さんから次のような話を聞いことがあります。"聖霊充満が体験したくて、いつも心の中でだけ願っておりました。特別に祈る時間もないまま、「主である神様! 聖霊で満ち溢れるように、バプテスマを授けて下さい。」という願いを持って毎日を過ごしました。ところが、ある日の朝、朝飯前に食膳を前にして感謝の祈りを捧げながら、「全知全能であられる神様! 聖霊充満になるようにして下さい。」と祈るや、突然、聖霊が臨まれました。全身がむちゃくちゃに震動し、異言が飛び出し、食膳は向こう側に吹っ飛んでしまいました。その日の朝は、聖霊充満になって朝ご飯も食えずに出勤しました。" 聖霊さまは、皆さんが祈り求めるとき、いつ、来られるかわかりません。

皆さん! 私たちは、聖霊を私たちの「清めの石がめ」に満たさなければなりません。イエス様を信じない世の人は、この「清めの石がめ」がけがれていて、その人の身体には世俗がいっぱいであり、悪魔がいっぱいであり、あらゆる世の汚れがいっぱいです。しかし、イエス様を信じるとき、悪魔と世俗がすべて追い出され、イエス様の十字架の血潮で聖潔になるのです。

ですから、私たちは聖霊充満になり、聖霊が溢れ出るようにならなければなりません。「清めの石がめ」を水で満たさなければなりません。聖霊で満たさなければならないのです。

次に、御言葉は「水」で表現されています。「エペソ人への手紙 5章26節」に、『キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、』と記されています。私たちが心の中に聖霊で満たされたなら、次には御言葉で満たされなければなりません。『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです。』

御言葉がどのようにしたら、心に満たされるでしょうか? それは、御言葉を口ずさむことによって心に満たされるのです。右の耳で聞き、左の耳で流してしまえば、御言葉は心の中に満たされません。御言葉をいつも口ずさんだら、御言葉が心の中に充満になります。十字架を見上げながら、神様の御言葉を口ずさんでご覧下さい。

キリストが、私たちのために十字架に釘付けられて身を裂き、血を流して死なれ、その血潮で私たちの罪を洗い清めて赦して下さり、私たちを救って下さり、義として下さった、ということを一回、深く噛み締め、それから繰り返しまた噛み締めてご覧下さい。そうしたら、「信じて、赦され、義とされる」という御言葉が心の中に充満に満たされてしまいます。

また、イエス様が十字架を通して、世俗と悪魔を滅ぼされ、私たちの中に天の御国で満たして下さり、聖霊で満たして下さったことを深く口ずさんでご覧下さい。皆さんの中にその御言葉が満ち溢れるようになります。

また、イエス様が十字架を通して、私たちのすべての悲しみを担い、私たちのすべての病を背負われた事を、あらためて深く口ずさんでみて下さい。『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。』と言われました。私たちの病をすべて十字架の上で背負われ、背中に血を流しながら死んで行かれたイエス様を、口ずさんでみて下さい。

そして、私たちの心の悲しみをすべて取り除いて下さり、喜びと楽しみを「生ける水」のように満たして下さるキリストを、口ずさんでみて下さい。主を深く考えながら、主のそのお恵みを考えてみながら、それを私たちが口ずさめば、そのお恵みが私たちの心の中に充満に満たされるのです。

主が、私たちのために呪われたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出して下さいました。いばらとあざみを私たちの代わりに担われ、私たちに代って呪われたものとなって十字架に高く架けられて、身を裂き、血を流されながら苦しみに遭っておられるイエス様を、深く考えてみて下さい。

イエス様は、私の呪いを代わりに背負われ、私の貧しさを代わりに背負われ、私の失敗と失望を代わりに背負われて、あのように裸になって、十字架に釘付けられたのだ。イエス・キリストが私に代って苦難にあわれたのだから、私はいばらとあざみと呪いと貧しさから解放されたのだ…。これを深く、もう一度、口ずさんでみて下さい。皆なさんがそのことを口ずさむとき、信仰が心の中に充満になるのです。

イエス様が十字架の上で私の死を負われ、そこで苦難に遭われ、死なれ、葬られ、よみに下り、そして三日目に復活されたことを深く口ずさんでみて下さい。また考えてみて、また反芻して、また考えてみて下さい。皆さんの心の中に天国の栄光と喜びが満ち満ちて、溢れ出るようになります。

ですから、いつも聖霊様を認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼み、そして聖霊で満たされてから、御言葉を口ずさんで下さい。ただ、うわの空で聞いたり、聞き流してしまわずに、神様から恵まれたいなら、神様の約束の御言葉を心の中に反芻し、反芻し、さらに口ずさみ、口ずさんで下さい。神様の御言葉が心の中に充満に満たされるようになります。そうしたら、「水」である御霊と「水」である御言葉で、私たちの「清めの水の石がめ」が満たされるようになるのです。




第四、宴会の世話役の所に持って行きなさい

主が、『さあ、今汲みなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。』と言われました。この「汲んで、持って行きなさい。」ということは、「祈りなさい。」と言うことです。

「ヨハネの福音書 14章13節〜14節」に、『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』と記されています。

もう、御言葉も充満であり、聖霊も充満でありますので、「祈り」をもって掻き回したら、神様の御力によって奇蹟が起こり始めます。清めの石がめに水を満たしておいて、手伝いの人たちが「水を汲む」とき、その水が「ぶどう酒」になったのと同じく、皆さんの中に聖霊が充満であり、御言葉が充満であれば、祈りをもって聖霊と御言葉で充満である私たちの心の中を掻き回したら、神様の御力が現れて変化させて下さるのです。

皆さんの人生の中に、思ってみたこともない変化が起こるのです。悪い人は善良な人に変化されます。凶悪な人は義の人に変化されます。トルストイは、自分がイエスを信じる前はとても悪い人間であったが、聖書を読み、イエスを信じるようになるや否や、聖霊が臨んで下さって、自分の悪い考えを正しい考えに、凶悪な心を善良な心に、醜悪な人生を聖なる人生に変化させて下さったと、彼は証しをしました。

こんにち、キリスト教の偉大さは、宗教と言う面からではなく、「変化させる」力があることで偉大なのです。不品行で放蕩する者は聖い人に、酒癖の悪い人は温厚な人に、ばくち打ちは博打から足を洗い、怠け者・快楽にふけっていた者は正常な暮らしに帰ってくる、というように変化されるのは、「聖霊と御言葉」が臨んで、水をぶどう酒に変化させたのと同様に、私たちを変化させるからです。

主は、私たちの心の中に信仰、希望、愛で満たして下さり、義と平安と喜びで満たして下さり、肯定的、積極的、創造的、生産的にして下さるくださるのです。『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』と、聖書に言われました。

私たちの成功、又は失敗は、私たちの心によるのです。目には見えない、心の中になされることが、外に溢れ出るのです。心に変化があってこそ家庭も変化され、社会も変化され、国家も変化されるのです。IMFも、私たち国民の心が変化してこそ立派にこのIMFを通過して、私たちが良い暮らしをするようになるのです。いくら行政的改革をしても、私たち国民の心が変化せず、依然としてそのままなのでは、再び昔に戻ります。

いくら豚に風呂をさせ、素晴らしいネクタイを結んで上げて、奥の間の敷布団の上に座らせて置いても、豚は直ぐにそこを豚小屋にしてしまいます。豚の心が変化しない以上は、いくら環境を変化させて上げても豚はやはり豚なのです。私たち人々の心を変化させることができる道は、イエス様を信じ、聖霊をいただき、御言葉で満たされ、そして祈ることです。そうれば変化されるようになります。

「マルコの福音書 9章29節」に、『すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」』と記されています。また、「ヤコブの手紙 5章17節〜18節」にも、『エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。』と記されています。

ですから皆さん、私たちの心の中に神様の御言葉と聖霊が充満に満たされたら、その次には祈ることです。祈ったら、すべてに神様の奇蹟のみわざが起こるようになります。祈る時、聖霊と御言葉が巨大な変化の「みわざ」を起こすのです。

「創世記」をご覧下さい。『地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水のうえにあり、神の霊は水の上を動いていた。』地は形がなく、何もなく、やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた…その時、御言葉が与えられました。『光よ。あれ。』と神様が仰せられたのです。すると、神様の御言葉と神様の霊がみわざを働かして、闇のなかに「光」ができました。

『大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。』と神様が仰せられるや、大空ができ、大空の下にある水と、大空の上にある水とが区別されて、神様の仰せの通りになりました。また神様が、『天の下の水は一所に集まれ。かわいたところが現れよ。』と仰せられました。すると、その通りになりました。『実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。』と仰せられました。その通りになりました。

神様の霊が動いており、主が御言葉を与えられるや、「太陽と月と星」が現われ、「飛ぶ鳥、海の巨獣」と「生き物、家畜、這うもの」がその種類に従って創造されました。その後に、神である主は『土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。』それで、人は生きものになりました。

カナの婚礼の宴会で、水を変化させてぶどう酒に造りあげ、その家に「形がなく、何もなく、やみが大いなる水の上にあった時」、主が秩序と義といのちと富裕と麗しさをもたらされたように、こんにちも、私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れて、聖霊充満、御言葉充満、お祈り充満になったら、暗闇は変化して明るみになり、無秩序は変化して秩序となり、死は変化していのちとなり、貧乏は変化して豊饒になる「変化のみわざ」を神様が起こして下さるのです。

わが神様は、変化させる神様です。神様は、私たちに宗教だけを与え、儀式の衣だけを着せて下さるのではありません。哲学や教訓などだけを教えて下さるお方ではありません。神様は、皆さんと私の生涯の中に入って来られて、私たち自身と周囲の人たちがびっくり驚くほどに、私たちがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、そしていのちを溢れる程に豊かに得るように変化させて下さる神様なのです。

変化されなければならなりません。変化されるようになります。我が主イエス・キリストは、私たちに変化をもたらすために十字架を負われ、身を裂き、血を流して下さいました。

水は「ぶどう酒」に変化され、ぶどう酒は色が魅惑的で、香りがあり、人を酔わせます。神様は私たちを変化させて、見る目にも美しく魅惑的できれいな人にして下さり、品性が香ばしく、キリストに酔ってしまう人にして下さるのです。そして、私たちのすべての不足を満たして下さるのです。

皆さん! ダビデは、『主は私の羊飼い。私は乏しい事がありません。』と讃美しました。変化させる神様は、いのちを得るにしても溢れるように得させて下さり、皆さんの生活に不足する事が何もないようにして下さるのです。

それで、今日、この時間、イエス様が両手をいっぱいに差し伸べて、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と仰せられながら、私たちを招いておられます。イエス様の前に出て来てください。イエス様に皆さんのいのちと運命をお委ねして下さい。

聖霊を充満にいただき、御言葉を口ずさみ、そして祈れば、変化させる神様の奇蹟が今日も、皆さんの中に驚くほど現われるように、神様がみわざを働かして下さいます。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! イエス様の愛が私たちに訪ねて来られて、私たちを変化させて下さって有り難うございます。私たちの運命と環境を変化させて下さるだけでなく、私たちの品性までも変化させて下さって、本当に有り難うございます。

全知全能であられる、天のお父さま! この地には、変化の必要がないところは一つどころもありません。特に私たち人間は、すべての面で変化されなければなりません。そうしてこそ、明日は今日より、来月は今月より、来年は今年より希望に溢れる人生を生きることができます。その変化させる力が、イエス様にあることを私たちは知っています。

イエス様が、死亡を撤廃なさり、いのちを私たちに豊かに与えて下さり、私たちに大きな変化を与えて下さったことに感謝します。変化の力である聖霊充満と御言葉充満と祈りを持って、こんにち、私たちの生活がすべて、カナの婚礼の宴会のように変化されるように助けてください。

愛であられる、父なる神様! 聖徒さんたちが聖霊充満になるようにして下さい。すべての聖徒さんたちが、御言葉で充満になるようにして下さい。毎日、絶えず祈るように助けて下さい。日々、変化の奇跡を身体いっぱいに体験するように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!