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「生きている間、いつも問題はあります」
 






■聖書箇所

「ヘブル人への手紙 5章 7節〜10節」
5: 7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
5: 8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
5: 9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
5:10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。




今日、私は皆さんと共に『生きている間、いつも問題はあります。』と言う題目で御言葉を分かち合おうと思います。




第一、旧約の人物たち

皆さん、私たちが聖書を見ますと、旧約の人物の中で神様の祝福を受けた偉大なしもべたちも、何の問題もなく人生を送ったのではないと言うことを知ることができます。まず、アブラハムをご覧下さい。彼は75歳のときに、カルデアのウルという故郷を離れてカナンの地まで来ましたが、カナンの地が恐ろしい飢饉に襲われて、本当に切迫した問題に直面しました。

自分の妻と甥のロト、そして連れてきた多くのしもべたちと親戚の者たちが食べる物も飲む水もみな切れてしまいました。数多い家畜の群れはみな飢えで倒れ、死にました。この重大な問題に直面したアブラハムは、言いようもない精神的苦痛と窮乏を経験しました。彼は神様から選ばれたしもべであり、神様から祝福していただいた人でしたが、問題がない人生ではありませんでした。

仕方がなく、そこから避難してエジプトに下って行きましたが、エジプトの王パロに自分の妻を奪われて、彼は本当に涙を流しながら歳月を過ごさなければならない、甚大な問題がある人でした。彼は、問題のない人ではありませんでした。後に、神様の慈しみによって妻を取り返し、カナンの地に戻って来ましたが、カナンの地では所有地が狭く、牧草地も少なかったので、甥ロトの家畜の牧者たちと、アブラハムの家畜の牧者たちとが争い合い、叔父と甥の間に紛争が起こるという、重大な問題にまたぶつかりました。

アブラハムはすばらしい神様の民であり、選ばれた人でありましたが、問題が無かったのではないのです。

カナンの地で、彼は85歳になるまで暮らしましたが、息子がありませんでした。それで、妻の勧めでハガルを娶りましたが、ハガルが妊娠し、それによって本妻であるサラとハガルとの間にひどい争いが起こりました。家庭にとって極めて深刻な問題となりました。仕方なくハガルを追い出しましたが、天使がハガルを戻らせたので家に帰ってきたハガルと本妻サラとの間に、新しい問題がまたもや起こりました。

そうした後、100歳のときに息子イサクを生んだのですが、イサクが乳離れをする日の宴会の時に、ハガルから生まれたイシュマエルがイサクをいじめるのをサラが見て怒り、アブラハムのところに来て、「あの女奴隷とその息子を追い出して下さい!」と要求しました。それで、アブラハムは涙を呑んで、はしためハガルとその息子イシュマエルの運命を神様にゆだねながら、水の皮袋一つを肩にかけさせて追い出してしまいました。

皆さん! アブラハムには問題が無かったとお思いですか。彼は神様から選ばれた人であり、信仰の祖先だとして神様から召されたのですが、彼の人生は問題だらけでありました。

イスラエルを飢饉から救ったヨセフには、問題が無かったでしょうか。彼はお兄さんたちの嫉妬に会い、17歳の時にアラビアの隊商に奴隷として売られて、エジプトに引き連れられて行きました。愛する父のもとを離れて、見知らぬエジプトの地に奴隷として売られて行き、エジプトの王の廷臣で侍従長であるポティファルの家の奴隷になりました。

その当時の奴隷生活の辛さと苦しみと悲しみは、筆舌で表現できるものではありません。彼は兄弟たちの中でもっとも神様に良く仕え、神様の愛を受けた人でしたが、問題のない人ではありませんでした。むしろ問題だらけでした。

ポティファルの家になんとか馴染むようになり、10年間の奴隷生活からその家の総務になったのですが、ポティファルの妻から濡れ衣を着せられて、監獄に投げ入れられました。それで、当てもなく2年間という歳月を監獄で涙を呑みながら暮らしました。ヨセフにもとても大きな問題があったのです。

そうした後、30歳の時にパロ王の夢を解釈して、彼は総理大臣になりましたが、7年の豊年の後に、7年の飢饉がやって来て、その困難の絶頂の中ですべてのエジプト人とパレスチナ人たちに食糧を供給して食べさせて行かなければならない大きな問題に直面、その問題を抱いて解決しながら生きて行きました。後には兄弟たちがみなヨセフのところに頼って来たので、その兄弟たちを赦し、彼らとその妻子たちを食べさせなければならないといった問題にも、彼はぶつかりました。

それゆえ皆さん、旧約時代の代表的人物であるモーセであるとか、アブラハム、またヨセフ…、誰一人として問題のない人はいませんでした。




第二、新約の人物たち

新約の人物の中で、イエス・キリストの十字架の血潮に拠り頼み、恵みによって救いを受けた人たちの中にも、問題がない人は一人もいませんでした。恵みと祝福を受けたとしても、問題は人生から離れては行きません。

使徒ペテロをご覧下さい。ペテロは、イエス様の弟子たちの中でもリーダー格でありましたが、イエス様を3回も否認しました。彼はイエス様に、「私は、主が行かれる所には、監獄であっても共に行き、死に場所であっても一緒に行きます…。」と誓いました。ところが、イエス様がゲッセマネの丘で捕えられるや、イエス様を捨てて逃げました。

その次には、イエス様が大祭司アンナスとカヤパの庭で尋問を受ける時、遠くからついて行きましたが、小さな女の子の前で、「イエスを知らない」と否認し、三度目には、呪いをかけて誓いながら「私は、あの人を全く知らない。」とまで否認しました。それによって襲って来た精神的「暴風雨」と苦痛は、言葉では言い尽くせないものでした。ペテロは、罪責感にさいなまされ、身悶えしながら苦しみました。

「知らない」と否認したイエス様が、自分の目の前で十字架に架けられ、肉を裂き血を流して死なれるのを見た時、ペテロは、生きるよりは死ぬほうがましだと、さらに深い精神的苦悩と罪責を感じました。ペテロはすべてのものを失って、挫折しました。

イエス様が、死者の中からよみがえられました。そのよみがえられたイエス様にお目にかかってからも、彼の挫折はあまりにもひどかったので、イエス様の弟子になることを断念して昔の漁師に戻ろうとしてガリラヤに下って行き、古びた網のごみをはたき捨て、船を修理して魚取りに出かけました。ペテロは、このような悲惨な状態にまで追い込まれた人でありました。

使徒パウロは、イエスを信じる者どもを捕えようとして行く途中、ダマスコの近くまで来たとき、真っ昼間であったのにも、突然、天からの光りが彼を巡り照らし、その中から主が、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』と言われ、「主よ、あなたはどなたですか?」と尋ねるや、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである!』と言われました。

その言われる言葉を聞いて、地に倒れたパウロは目が見えなくなり、ダマスコに入って行ってアナニヤの按手を受けてから、イエス様を信じ、聖霊に満たされ、洗礼を受けて、目が見えるようになりました。パウロは直ちに、キリストを伝え始めました。すると、彼を殺そうとしてユダヤ人たちが陰謀を企てました。それでパウロは、仕方なくダマスコの城壁から夜中に籠の中に乗せられ、吊り下ろされて逃げました。イエス様を信じるやいなや、彼には大きな問題が続々と押し寄せて来ました。

パウロがエルサレムに入って来たとき、そこの人たちが彼を冷たくあしらいました。少し前には教会を壊し、聖徒たちを監獄に押し込んだ人間が来たと言うのですから、誰も彼の相手をしてくれません。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが彼を殺そうと狙うので、パウロは自分の故郷であるタルソへ逃げて行きました。そして、彼は荒野で3年間、祈りながら神様を待ち望む生活をしました。

それからパウロは、異邦人の宣教師になり、第1次、第2次、第3次と海外伝道に出かけましたが、行く至る所で殴られ、監獄に閉じ込められ、破船に遭い、限りなく「問題」にぶつかったパウロでありました。最後には、彼はローマで首を切られて殉教しました。




第三、問題を克服するために

皆さん、考えようによっては、「私には、人生を生きて行くのにあまりにも問題が多い。私の家庭に問題があり、夫に、妻に、子供たちに問題があり、職場に、事業に、仕事に、生活に、本当にあまりにも問題が多い。生きて行くのが苦しくてたまらない…。」と、挫折し、悲しんでいる人がたくさん居られと思います。

しかし、皆さんより先に生きた神の偉大なしもべたちや働き人たちも、神様の恩寵と祝福は受けましたが、問題なしに生きた人は一人もいません。人生において罪なく生きた方は、お一人居られます。それは神の御子・ナザレのイエス・キリストですが、そのイエス様さえも、33年の間、言い尽くせないほどの数多い問題に会われ、迫害を受けられ、最後は、十字架に釘付けられて、身を裂き、血を流して死にまで至られました。

このように、問題がない人は誰もいません。『人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。』とヨブは言いました。皆さん! 皆さんと私の人生には、常に問題がやって来るのです。ですから、「私は問題に遭ったから、神様から捨てられたのだ。私は問題に遭ったから、信仰が弱い人間だ。私は問題に遭ったから、もう破滅だ…。」と考えないで下さい。信仰の偉大な勇士たちも問題に遭いました。甚だしい試練と問題に遭った人たちは神様から捨てられた人たちではなく、神様から選ばれた人たちでありました。

私たちが知らなければならないことは、こんにち、問題が私たちに襲って来たとき、その問題をどのように克服して、神様の恵みと祝福の中で生きて行くことができるかを知ることです。私たちは問題を克服し、その問題を私たちの糧食としなければならないのです。それでは、どうすれば私たちが押し迫って来る問題を克服することができるでしょうか。

第1番目に、自分に近づいて来る問題は、自分に与えられた運命として受け入れなければなりません。

人々は問題に出会ったら、「なぜ、私がこのような目に遭わなければならないか? 金さんや朴さんや趙さんにはこんな事がないのに、どうして私にはこのような問題が起こるのか…?」 このようにしきりに、「なぜ、私が…。」と考えがちです。しかし皆さん、そう考えずに、問題に出会ったら、「これは、私に与えられた運命だ。」と受け入れなければなりません。私たちがよく言う「運命」は、神様が予定されたものだと、考えなさいと言うことです。

「運命」は、すべて同じものではありません。また、永遠の昔に神様が既に定められて、それが今現われて来たのです。私たちとしては避ける事ができません。ですから、誰のせいだとか運が悪くて、と言う風に考えてはならないのです。又は、神様はどうしてこんなに無情なのだろうか、と嘆く人もいます。

皆さん! すべて神様がなさることです。私たちは、どうしようもありません。私たちは、鼻の先のことも分かりません。神様は、永遠の中で働かれる神様です。神様がなさることを、私たちがどのようにして知ることができるでしょう。人間は神様に対して怨み言を言える立場ではないのです。今、駄目な事が、後に良くなることもあります。今の苦しみが、後には幸福に変化することもあるのです。ですから、私たちが問題に出会った時に、神様を怨むようなことをしてはいけません。

そして又、人々は問題にぶつかった時に、お隣りや環境に対して怒ったり、敵愾心(てきがいしん)を抱いたりします。誰彼のせいでこうなったのだ、そのお陰で私がこう苦しんでいるのだと、よく憤怒と敵愾心にかられますが、そのようなことも捨てなければなりません。私たちが、現在置かれた立場から問題に遭ったら、それは神様が私に与えられた運命なのだと考えて、その問題に反抗せず、その問題を自分の人生の中に受け入れなければならないのです。

人間の生活の中で起こる問題は、つき止めて行けば私たちの祖先や、私たちの罪の代価としてやって来るのです。祖先の罪、人類の罪、国の罪、社会の罪、自分の罪の結果なのです。罪の代価としてこの地上には問題が絶えないのです。

「詩篇 107篇10節〜12節」に、『やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。』と記されています。人間の問題がどんなに深刻であったのか、神様が親しく肉の体を身に着て来られて、人生の問題を解決するために十字架を負われ、その身を裂き、血を流されたということを覚えておいてください。

問題が起こったと言うことで、神様を怨んではいけません。神様は、人間が作り出した問題のために直接この地に訪れて来られて、十字架で死ぬ苦しみに会われなければならなかったのです。「イザヤ書 53章 6節」に、『私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。』と記録されています。

こんにち、問題に出会った時に、その問題のゆえに神様を怨んでもならず、隣人や環境に敵愾心を抱いてもならず、「なぜ、私にこんなことが起こるのか。」と反発したり、抵抗したりしてもいけません。問題にぶつかったなら、これは私に配当された運命であると考えて、受け入れて下さい。そして、この問題と共に闘わなければならないのです。

第2番目には、問題にぶつかった時、反抗し、怨みながら、神様に背を向ける人がいます。しかし、真実な信仰の人はどのような問題にぶつかっても、それを「悔い改める」機会とします。大きかれ小さかれ問題が起こった時には、他人に責任を転嫁せずに、自分に属する運命的事件であるとして、自ら悔い改める機会としなければならないのです。

 「詩篇 34篇17節〜18節」に、『彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。』と言われました。ですから問題にぶつかった時には、痛く悔い改め、告白し、砕かれて、自らを隅々まで照らしてみる機会としなければならないのです。悔い改めなければ、神様が顧みて下さることができませんが、悔い改め、砕かれた人は、神様が顧みて下さるのです。

それから、問題に出会ったときには、神様にもっと近付く機会として下さい。もっと御言葉を読み、もっと信仰と従順の道を学ばなければなりません。「マタイの福音書 4章 4節」に、『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』と言われたように、私が死ぬまで御言葉によって生きずに、肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求しながら、この世のパンだけで生きているのではないかと反省し、神様の御言葉を真剣に探し求める機会としなければならないのです。

「詩篇 119篇116節〜117節」を見ますと、『みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください。私をささえてください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう。』と記されています。問題にぶつかった時には、神様の御言葉を熱心に読み、祈りながら、神様を探し求める機会としなければなりません。

そして第3番目には、問題が起こったら、東奔西走しながら世の人の力と権力に頼ろうとせずに、その問題解決のための祈りに専心しなければなりません。

中途半端な生温い祈りではなく、腹の奥底から湧き出る真剣な祈りをしなければなりません。まことを尽くし、全身全力を傾けて、主に、救いの御手を伸ばして助けて下さるよう、切に祈り求めなければならないのです。「詩篇 39篇12節」に、『私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください…。』と記されています。涙を流しながら、主に切に祈り求める時、主は私たちの祈りを聞いて下さり、その祈りに答えて下さるのです。

聖書には、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記されています。また『あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』とも言われました。ですから、問題に出会ったときには、私たちに神様の奇跡が現れるときが来たと考えなければならないのです。

聖書を見ますと、アサ王が足の病気に罹ったのですが、神様に祈り求めず、医者に頼ったところ死んだと記録されています。アサ王が足の病気に罹りました。それは、彼に癒し主である神様が現れてくださる機会でありました。もしも、彼が神様に祈り求めたなら癒されたでしょう。そうせずに医者に頼ったので死んだと聖書に記録されているのです。

愛する聖徒の皆さん! 問題が生じたら、その時は神様にその問題を解決していただく機会がやって来たと思い、心を尽くし、思いを尽くし、命を尽くして、主である神様に真剣に祈り求めて下さい。早天祈祷、徹夜の祈祷、あるいは断食祈祷を捧げながら呼ばわり祈れば、神様はその問題に干渉して下さいます。そして神様のみわざが現われるのです。私たちが問題にぶつかった時は、神様に祈り求めることに最善を尽くさなければなりません。

第4番目に、私たちは、問題に遭って祈ったとき、その結果を謙虚に受け入れなければなりません。

「ヘブル人への手紙 5章 7節〜10節」に、『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。』と記されています。

イエス様も、ゲッセマネの園で激しく悲しみもだえ、涙をもって神様に祈り、それによって十字架の死と復活の恵みを得るようになったのです。私たちが祈った後、自分が願った通りになるときもあり、そうでないときもあります。しかし、どうなろうとも、その結果を受け入れなければなりません。悔い改め、ますます神様に近づいて行き、呼ばわり祈った後には、その結果を神様の御心として受け入れなければならないのです。

神様がすべてご存知のことであり、予め知っておられたことですから、結果が良くても悪くても神様が定められたこととして、神様の御心として、謙虚に受け入れなければならないのです。

第5番目に、涙を流しながら感謝しなければなりません。即ち、良い方向に、自分が願った通りに答えられても感謝し、又は、そのようにならなかったので苦しくても、涙をもって神様に感謝を捧げなければなりません。「詩篇 50篇14節〜15節」に、『感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」』と記されています。

ヨブは、激しく泣き叫びながらも決して神様を恨みませんでした。彼は財産をすべて失い、子供たちもみな失い、妻が自分に背を向けて家を出て行き、その上に全身病気にかかり、灰の中に座って土器のかけらで体を掻きながらも、彼は神様を恨みませんでした。慟哭と悲痛の中で絶叫しながらも、神様を恨まなかったのです。

私たちはこの世を生きながら、神様を恨む資格はありません。私たちが造られたのは、神様に栄光を帰すために造られたのです。神様は私たちを造られた「創造主」です。私たちの主人であり、私たちは神様の所有物なのです。神様が私たちをどのようになさろうと、生きようが死のうが、栄えようが滅びようが、何がどうなろうとも、私たちには、神様に栄光を帰し、感謝する資格しか与えられていないのです。

「ヨブ記 1章21節〜22節」に記されている、ヨブの言ったことを記憶して下さい。『「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。』

また、「ヨブ記 23章10節」で、ヨブは次のように告白しています。『しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。』ヨブは、自分の前途を全く知りませんでした。けれども、主はご存知なのを知っていました。良き神様であられますので、自分が鍛えられた後には金のように、貴重なものになって出て来ると、ヨブは確信していたのです。

私たちは皆、一生を生きる間、問題だらけの中で生きて行きます。しかし、神様と共に生きる人生は、あらゆる問題を克服することができる力を得ることができ、どのような逆境の中にあっても、さらには死の前にあっても、明日への希望を持って生きることができるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! この世で罪人だけが試練と患難に遭うのではなく、敬虔な人たちも試練と患難に遭い、問題にぶつかります。天のお父さま! 問題が襲って来るとき、奇怪なことのように考えずに、自分に与えられた運命であると思って、それを喜んで受け入れることができるように助けて下さい。そして、問題にぶつかったとき、悔い改める機会とし、神様の御言葉を熱心に読み、神様にもっと近づいて行く機会とすることができるように導いて下さい。

全知全能であられる、我が父なる神様! 問題が起こった時、神様に全身全力を尽くして祈るように助けて下さり、神様の助けの御手が現わされる機会とすることができるようにして下さい。 天におられる、父なる神様! 問題のために祈った後は、結果を謙虚に受け入れ、従順に聞き従い、結果が良かろうが悪かろうが、それを従順に受け入れて、涙で感謝し、そして神様と共に生きて行く私たちとなるように助けて下さい。

そうする時、襲って来た問題が、後には私たちに大きな祝福となり、私たちが純金のようになって出て来ることを信じるように導いて下さい。愛であられる、我がお父さま! 色々と問題に襲われるとき、異常なことに見舞われると思わずに、神様が私たちを鍛錬なさるのだと考え、かえって喜び踊るように助けて下さい。また、その問題を快く受け入れ、消化してしまうことができるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!