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「主が共におられます」
 






■聖書箇所

「詩篇 23篇 4節」
23: 4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。




今日、私は皆さんたちとご一緒に『主が私と共におられますから』と言う題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

旧約聖書の「ヨブ記 5章 7節」に、『人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。』と記録されています。このように、私たちが願おうが願うまいが、火花が上に飛ぶように、人は苦しみに会うために生まれたのだと言う事です。

人生のすべてが不確実であり、不安です。そのような中で大小様々な試練がいつも、私たちの傍をくるくる駆け回っています。私たちは、どこから心の慰めとまことの平安を得ることができるでしょうか?

今日、神様が与えてくださった「詩篇 23篇 4節」の御言葉は、私たちに大いなる慰めと平安を与えてくださる貴重な真理の道に、私たちを導いてくださることができます。




第一、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。

この聖書の御言葉、『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。』と言うこの御言葉を、私たちが一度心のとびらを開いて深く、詳細に、考えてみたいと思います。

聖書には、「死の陰の谷」があると言われました。私はイスラエルを旅行するときに、ユダヤの荒野で「死の陰の谷」と言う渓谷に行って見たことがあります。どんなに渓谷が深く、険しかったか知れません。欄干にしっかりと寄りかかって下を見下ろしたのですが、怖く、眩暈がして、到底長くは見下ろしていることができませんでした。直ぐにも吸い込まれるように、まっさかさまに落ち込みそうでありました。

皆さん、昔、私たちが「カンヌン」(江陵)に行く途中に「ジンブリョン」(陳富嶺)と言う峠をくるくる回りながら越えることになりますが、そのとき、下の渓谷を見下ろしてからは、「私が生きて戻って行くことができるだろうか…?」と凄い恐怖を感じました。そんなにもその渓谷は深く、険しく、恐ろしかったのです。今もそのときのことを思い出したら、背筋が寒くなります。それこそ「死の陰の谷」です。

ところが聖書は、私たちが「死の陰の谷」を歩くことがある、そのようなときが近づいて来ると言うのです。

皆さん、私たちが罪悪の死の陰の谷を一回見下ろして見ましょう。真っ暗い罪悪の死の陰の谷に落ち込んで、そこで彷徨うと言うことは、恐ろしく、戦慄を感じます。

また、貪欲の死の陰の谷を一回見下ろして見ましょう。保険金を貰おうとして、9歳の子どもを殺してからは火で焼く、貪欲の恐ろしい死の陰の谷を見下ろして見てください。私たちが、そのような貪欲に捕らわれたら、到底人としてはすることが出来ないことをするようになるのです。眩暈がし、恐いです。

または、疾病と苦痛の死の陰の深い谷を見下ろして見てください。耐えられない恐ろしい病気に罹って24時間、苦しみと悩みに遭うその苦痛の死の陰の谷を見下ろしたら、慄き震えざるを得なくなります。

または、悲しみと絶望の深い死の陰の谷を見下ろして見てください。到底耐え抜くことのできない挫折と絶望、沈鬱と悲しみに陥ってあえぐその深い谷底、とても抜け出ることができない、そのような絶望の底に一回入って見てご覧下さい。

そうでなければ、失敗と窮乏の死の陰の谷を一回見下ろして見てご覧ください。眩暈がするはずです。事業が崩壊し、職場を失ってしまい、生きて行く方法が全くなく、天と地のどこへ行って見ても拠り頼むところがない、そのような失敗と失望と挫折の深い谷底を見下ろしていたら、眩暈がします。

しかし最後に、死の谷を見下ろして見たら、そこは本当に絶望です。どこから来てどこへ行くのか知らないまま、死の陰の谷を見下ろすとき、そこに降りて行った人はみな戻って来たことがありませんので、どんなに恐ろしいか知れません。

私たちは人生を暮らして行きながら、色々な大小の死の陰の谷を通らざるを得ません。その谷間の入り口に足を踏み入れた瞬間、私たちは身震いし絶望します。聖書を見ますと、死の陰の谷を歩くときには、必ず災いに遭うと言うのです。そのまま死の陰の谷を歩くことは問題がありません。しかし死の陰の谷を歩くようになれば、私たちは災いに遭うようになるのです。

死の陰の谷を歩く間、良心の苦しみの災いに遭う恐れがあります。良心が責めることを犯して死の陰の谷を歩かなければならないので、良心の苦痛に遭う、そのような恐れがあるのです。

死の陰の谷を歩く間、この世で積み立てて置いた名誉をすべて失ってしまって、人たちから指差されながら嘲笑われる辱しめと侮辱に遭う、そのような恐れが襲います。或いは死の陰の谷を歩く間、肉体的な苦しみと不安とに襲われる、そのような恐れもあります。

または、果てしなく遠く、希望が全くない、精神的に真っ暗闇の夜に見舞われる恐れもあります。或いは、死の陰の谷を通るとき、完全に捨てられて、自分ひとりで侘しく歩いて行かなければならない、そのような恐れもあります。または、存在自体がなくなってしまう、そのような恐れに身震いすることもあります。完全に自分がなくなってしまう苦悩、恐怖…、このような災いにも遭うようになるのです。

従って、死の陰の谷を歩くと言うことは決して楽しい体験ではないのです。それは恐ろしく、苦しく、辛い体験なのです。そうであるのにも拘わらず、私たちは人生を生きて行きながら大小様々な死の陰の谷を歩くようになっているのです。

それでは、死の陰の谷を歩くとき、どうしたら私たちは災いに遭わず、傷を負わず、無事に通り過ぎることができるか、と言うことです。




第二、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから。

第2番目に、私たちが注目しなければならないことは、「私は災いを恐れません。」と記録されていることです。イエス様を牧者としている人は、死の陰の谷を歩くことがあっても、災いを恐れない、と言うのです。それは、死の陰の谷を歩くとき、すべての人たちがみな離れ去って行って捨てられたと言う絶望の夜が襲ってきます。そんなときに、突然私たちの傍に現れたひとりのお方がおられます。それはイエス様です。主が私たちと共におられると言うことなのです。

これは私たちに大きな救いとなります。死の陰の谷を歩くときに、すべての人たちがみな私たちの傍を離れて行きます。父母、兄弟、一家親戚、友だちまでもみな離れ去って行きます。自分自らも自分を捨てる心情になるのです。そのような絶望的なときに、私たちの傍に近づいて来られて私たちを捨てられず、離れて行かれず、共に居てくださるお方がおられれます。それは私たちの主イエス様なのです。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と主が仰せられました。また、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あたたがたと共にいます。」と主は仰せられました。私たちの主イエス様は私たちより先立って、この死の陰の谷を通って行かれながらすべてに勝たれたお方です。イエス様は十字架で死なれてからよみがえられることによって、そのような偉大な勝利をもたらしました。主は罪悪の死の陰の谷を平地にしてしまわれたのです。

主は、私たちより先立って死の陰の谷を通られながら、そこに赦しと義を満たして平地にしてしまわれたのです。「テトスへの手紙 3章 6節〜7節」に、『神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。』と記録されています。

主は、死の陰の谷を私たちに先立って通られながら、赦しで埋めてしまわれ、義で埋めてしまわれました。イエス様を信じる人たちは、死の陰の谷を歩くことがあっても赦しと義の平坦な道を歩いて行くようにしておかれました。イエス様は貪欲の死の陰の谷を通って行かれながら、それを平地にしてしまわれました。「詩篇 23篇 1節」に、『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』と記録されています。

主のうちにあって私たちがまことの満足を得ましたので、貪欲に引っ張られて行かないように、主は貪欲の死の陰の谷を埋めてしまわれました。「マタイの福音書 6章33節」に、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と記録されています。人たちが貪欲の誘惑に溺れこんで行かないように、主がその対策を樹立しておかれたのです。

疾病の死の陰の谷、苦しみの死の陰の谷を、主は先立って通って行かれながら平地にしてしまわれました。癒しと平安で満たして平地に作り変えてしまわれたのです。「ペテロの手紙第一2章24節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記録されています。主は、死の陰の疾病と苦しみの谷を通って行かれながら、癒しと平安でその谷を埋めてしまわれたのです。

ですから、私たちは主イエス様に拠り頼んで、癒しと平安の確信を持って疾病と苦しみの死の陰の谷を悠々と勝利の歩みで通り過ぎることができるのです。また、悲しみと絶望の死の陰の谷を主は平地に作り変えておかれました。それで私たちは、悲しみと絶望の死の陰の谷も希望と喜びと歓喜の歩みで通り過ぎることができるのです。

「ヨハネの福音書 16章24節」に、『あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。』と記録されています。主は、悲しみと絶望の死の陰の谷を喜びで埋めてしまわれたのです。

「詩篇 16篇11節」に、『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』と記録されています。主と共に歩いて行くところには悲しみの死の陰の谷も喜びの平地となってしまうのです。

主は、死の陰の谷を平地に作り変えられました。それはよみがえりといのちで死の陰の谷を埋めてしまわれたからです。

「ヨハネの黙示録 21章 3節〜4節」には、『そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』と記録されています。

死の陰の谷が私たちに近づいてくるとき、私たちがそれだけを見つめたら戦慄し、身震いし、恐れるでしょうけれども、早くイエス様を見つめるようになったら、既にイエス様が先立って死の陰の谷を通られながらよみがえりといのちで平地にしてくださったのを見ることができるようになります。従って、私たちが死の陰の谷を歩くことがあっても災いを恐れないのは、主が共にいてくださるからなのです。

イエス様が共に居てくださらない人は、災いに遭います。イエス様が共に居てくださらない人は、あらゆる傷を負うようになり、苦しみと絶望の目に遭うようになるのです。しかし、イエス様が共に居てくださる人には、イエス様が既にその死の陰の谷を私たちに先立って通られながら、それらをすべて埋めて平地にしてしまわれたので、何の苦しみにも絶望にも遭うことがありません。ですから、私たちクリスチャンには、死の陰の谷は虚像であり、イエス様は実像です。

イエス様の御手を握って共に歩めば、私たちが険しい死の陰の谷だと思われるところがみな、通って見たら平地となっていることを知るようになります。それで、私たちは災いを恐れないようになるのです。私たちは罪悪の死の陰の谷も赦しと義の平地として歩き、貪欲の死の陰の谷も満足の平地として歩くようになります。疾病と苦しみの死の陰の谷も癒しと平安の平地として歩くことができるようになり、悲しみと絶望の死の陰の谷も喜びと歓喜の平地として歩いて行き、失敗と窮乏の死の陰の谷も幸いと祝福の平地として歩いて行けるようになります。また死の谷もよみがえりといのちの平地として歩いて行くことができるようになるのです。

ですから、イエス様が私たちに先立たれて十字架で死なれ、死の陰の谷を通られてよみがえられたことによって、イエス様を信じる人たちのために死の陰の谷を平安の平地にされたことを知って、私たちに近づいて来る大小様々な死の陰の谷を歩くようになるとき、その険しい谷を見つめず、私たちと共におられるイエス様を見つめ、イエス様の御手を握って歩けば、私たちは平地を歩いて行くようになるのです。




第三、共におられるイエス様

第3番目に、私たちと共におられるイエス様がなぜ、私たちに平安を与えてくださることができるかと言うことです。イエス様は私たちの避けどころであり、私たちの砦(とりで)であるからなのです。「詩篇 18篇 2節〜3節」に、『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。』と記録されています。

皆さん、櫓や砦は、敵が攻め寄せて来ても難攻不落の城としての役割をするものです。いくら敵が攻撃しても崩れない要塞を言うのです。ところが、イエス様が私たちには要塞となられると言うのです。私たちが人生を生きて行くとき、数多い敵軍が私たちに攻め寄せて来るとしても、イエス様が私たちの避けどころ、砦、要塞となってくださると言うのです。

ですから死の陰の谷を歩くとき、数多い敵たちが私たちに攻撃して来ても、私たちがイエス様のもとに避難したら、イエス様は私たちを守ってくださる要塞となってくださるのです。それで私たちが自分自身をイエス様に完全に委ねて、イエス様の背後に隠れていたら、そしてイエス様だけを見つめて拠り頼んだら、イエス様が私たちを災いから守ってくださり、私たちの堅固な要塞となってくださるのです。

「詩篇 91篇 9節〜11節」に、『 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。』と記録されています。

ですから皆さん、私たちが死の陰の谷を歩くことがあっても、私たちの傍におられるイエス様を発見し、キリストの背後に隠れたら、イエス様は皆さんと私を守る城となり、要塞となってくださるのです。イエス様の城と要塞を打ち破って攻めて来ることができる敵はないのです。

その上に主はもう一歩進まれて、主の鞭と杖で私たちをかえりみてくださいます。鞭は、羊を導くのに使用されるものです。鞭は、主の知恵と聡明と明哲と力を言うのです。誰が主の知恵と聡明と明哲と力に敵対して勝つことができるでしょうか。敵がいくら知恵をしぼっても、イエス様は予めご存知になられて、その鞭で、その知恵と聡明と明哲と力で戦われて、敵を撃退させてくださるのです。

また主の杖は、主の全知全能なる権能を言います。牧者は、獣が襲って来たら杖で打ちます。主はこの杖で私たちを守ってくださるのです。「ヨハネの手紙 第一 5章18節」に、『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。』と記録されています。

イエス様は私たちの要塞であられますので、私たちがその中に隠れるとき、主は、牧者の鞭と杖で敵に対抗して、敵が私たちに近寄ることができないようにしてくださるのです。ですから私たちは安心して暮らすことができるのです。

聖書に、『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』と記録されています。どのような死の陰の谷を歩くことがあっても、イエス様を要塞としてそこに避難したら、主の鞭と杖が私たちを守ってくださいますから、私たちは心の中に大きな平安をもって暮らすことができます。

イエス様を信じ、拠り頼む人だけがこの世を暮らしながら、真実で、深い心の平安を保つことができるのです。この世の中には何事も確実なものがありません。すべてのことがいつも揺れ動き、渦巻き、変化します。それで私たちはいつも身辺が不安であり、慰めてもらえるところがありません。従って、権力を握ってそれに拠り頼むか、お金を儲けてそれに拠り頼むか、父母・兄弟・親戚・親友に拠り頼もうかとして人たちは力いっぱい努めますが、このようなものは信頼することができません。

「詩篇 146篇 3節〜4節」に、『君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。その息が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。』と記録されています。人がこの世の中で拠り頼むことができるものは何もないのです。しかし、ひとえにイエス様を知り、イエス様のところに避けたら、そしてイエス様に拠り頼み、イエス様の鞭と杖で顧みていただくことを信じるときに、私たちの心に大いなる慰めが近づいて来るようになるのです。

天が崩れ、地が消え去っても、主の御言葉は一点一画も変わることがありません。天と地のすべての権力を持たれた私たちの主イエス様が、私たちの避けどころ、私たちのとりで、私たちの要塞となってくださり、イエス様がその中で知恵と聡明と明哲と力で、全知全能なる権勢で、私たちの為に戦ってくださり、守ってくださることによって、私たちがキリストに拠り頼んだら、そしてこの知識を持っていたら、私たちは心に平安を持つことができるのです。

「ローマ人への手紙 8章35節〜39節」に、『 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』と記録されています。

私たちのためにその身を裂かれ、血を流してくださったイエス・キリスト、限りない愛を施してくださり、私たちを召されてふどころに抱いてくださったこのイエス・キリストが、私たちが死の陰の谷を歩くとき私たちと共に居てくださり、私たちの櫓、砦、避けどころ、要塞となってくださって、私たちがイエス・キリストに拠り頼み、私たちが彼の背後に隠れていたら、限りない御力の鞭と杖で私たちを守ってくださるのです。

このイエス様を知り、このイエス様を見つめ、その後ろに隠れている私たちは、心の中に無限の慰めと平安で満ち溢れるようになるのです。イエス様が私たちの牧者であられる、と言うことがいかに大きな祝福であるかを私たちは悟らなければなりません。

イエス様を知らない人たちは牧者がない羊のように、山野を彷徨い、けものに噛み裂かれ、崖下に落ち込んだりして傷つくか、死ぬようになります。しかし私たちは牧者がない羊ではありません。牧者であられる我が主イエス様が、私たちが死の陰の谷を歩くとき、人生のすべての苦しみ、失望、挫折、大きな悲しみに遭っているとき、この世の友だちがみな私たちを捨てて去って行っても、主は私たちを捨てず、私たちの傍に居てくださって、私たちの砦となってくださり、要塞となってくださり、避けどころとなってくださるのです。どんなに有り難いことか知れません。

ですから皆さん、人生を生きて行きながら大小様々な死の陰の谷を歩くようになったとき、その死の陰の谷だけを見下ろして眩暈に襲われ、災いを恐れて慄き震えながら、不安と恐怖と挫折と絶望に落ち込まないようにしてください。その死の陰の谷が近づいて来たら、皆さんの傍にイエス様も近づいて来られる、と言うことを忘れないでください。

いくら孤独で侘しいところであっても、イエス様はそこに来て居られるのです。どの誰も、皆さんの傍にイエス様が訪ねて来られることを妨害することはできません。そのイエス様が手を伸ばしてくださりながら、「わたしがあなたの砦です。巌です。避けどころです。要塞です。わたしの後ろに隠れなさい…。」と言われるのです。イエス様は、その全知全能なる御力と、知恵と、聡明と、明哲とで敵と戦われ、全能なる杖で敵と戦われて、私たちが災いに遭わないようにしてくださるのです。

ですから、イエス・キリストを見つめるとき、私たちの心の中に慰めと平安と喜びが満ち溢れるようになるのです。この牧者イエス・キリストを見つめながら生きて行く人は、決して災いを恐れないようになります。この牧者イエス様は皆さんと私を導いて、緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われて水を飲ませてくださり、私たちのたましいを生き返らせてくださり、義の道に導いてくださるのです。

そしてまたイエス様は、私たちを永遠なる父の家に導いてくださる良き牧者であられるのです。私たちの牧者であられるイエス様は、私たちの為に死なれてからよみがえられて、死の陰の谷を既にみな埋めて置かれた勝利者となられたのです。

ですから皆さんは、寝ていようが覚めていようがイエス様を思い、イエス様に礼拝し、イエス様に仕え、イエス様に拠り頼み、イエス様の背後を避けどころとしてください。そうするとき、皆さんはどのような立場に置かれても災いに遭わないようになるのです。心に大きな平安をもってこの険しい世の中を悠々と生きて行くことができるようになるのです。

皆さん、一緒に大きく声を出して奉読しましょう。『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』

このイエス様を救い主とし、牧者としたなら、「アーメン!」と応えてください。

そうだとしたら、驚かず、恐れないでください。皆さんは、人生の谷を歩いて行く間、キリストと共に余裕を持って、勝利の毎日を暮らして行くことができます。




お祈り

愛であられ、聖き、我が父なる神様! 私たちは絶えず大小様々な死の陰の谷を歩くようになります。谷底に下りて見回すとどんなに深い谷なのか眩暈がします。

真っ暗で、黒雲でいっぱいです。前後が全く見えません。その死の陰の谷を目の前にするとき毎に、私たちに襲って来る災いが怖くて私たちは身震いするだけです。

全知全能であられる、我が天のお父さま! しかし、私たちが突然として私たちの前に現れられるイエス様を見つめるとき、私たちから恐れは去ってしまいます。イエス様は私たちのために、その死の陰の谷を私たちに先立って通られた私たちの牧者であられ、その死の陰の谷を平地にしてしまった偉大なお方であることに心より感謝申し上げます。

主であられる、我が神様! キリスト・イエスのうちにあれば、死の陰の谷も赦しと義の平地になってしまいます。イエス・キリストにしがみついていたら、悲しみの死の陰の谷も喜びの平地となってしまい、疾病の死の陰の谷も癒しの平地となってしまいます。また、呪いの死の陰の谷も祝福の平地となってしまい、死の谷もよみがえりといのちの平地に変化されてしまいます。

イエス様こそ、私たちの避けどころとなり、私たちの巌、砦、要塞となります。イエス様にはどの誰も敵いません。イエス様の鞭は知恵と聡明と明哲と力の鞭であり、イエス様の杖は全知全能なる杖です。

このイエス様の鞭と杖に勝つことができる武器は、この世にはありません。この世にはイエス様に打ち勝つことができる力の持ち主は全くありません。

「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」と言われたイエス様が、私たちの牧者として私たちと共に居られます。

父なる神様! このイエス様を信じ、このイエス様に仕え、このイエス様を愛し、このイエス様に拠り頼んでいる私たちに、限りない平安を持つことが出来るようにしてくださって有り難うございます。

こんにち、平安がなく、この世の風に吹きまくられて不安におののいている人たちが皆、イエス様のふところに抱かれるように助けてください。

すべてイエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!