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「不足症候群」
 






■聖書箇所

「詩篇 23篇 1節〜3節」
23: 1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23: 2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23: 3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。




今日、私は皆さんたちとご一緒に『不足症候群』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

我が国が日本植民地であった「朝鮮総督府」時代や、「6・25韓国戦争」を経験していない世代には、こんにち私たちが体験しているIMFの試練は、本当に苦しい経験であるに違いありません。職場を失い、事業が倒産し、収入が減り、生活が窮乏することは、耐えられない試練です。そのような一連の経験が、私たちの心の中に「不足症候群」と言う否定的な心の病気に罹るようにします。

職場を失うかも知れないとして恐れ、事業に失敗するかもと恐れ、社会から見捨てられて落伍者となるのではとの恐れ…など、それで心は敗北意識、無力感、挫折感、絶望のような否定的な考えと感情のとりこになります。このような「不足症候群」から抜け出て、肯定的で、成功的で、祝福された喜びで胸がいっぱいの人生を生きるためには、イエス様を自分の「羊飼い」として受け入れ、イエス様を人生の根本としてこそ、癒されることができます。

ダビデは、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と宣言しました。なぜかと言えば、主は、全知全能であられる神様であり、私たちの創造主であられるからです。この主が、私たちの「羊飼い」となられたら、私たちに「乏しいことがない」のは当然の理です。




第一、「主は私を緑の牧場に伏させ」

第1番目に、ダビデは「主は私を緑の牧場に伏させる」と言いました。羊飼いが羊を緑の牧場に伏させるのは、緑の牧場で羊が思うままに草を食んで、腹がひもじくならないようにさせるためなのです。皆さん、我が主である神様が、私たちの主イエス・キリストを「羊飼い」とされたのですから、私たちはイエス・キリストが飼う羊たちです。神様はキリストを通して、十字架の下に私たちが伏せり、思うままに腹いっぱい草を食むことができる緑の牧場を造って置かれました。

イエス様が造られた緑の牧場に私たちが行って、主と一緒に暮らしながら伏せもし、主がくださる緑の草を思い切り食べて見なければなりません。主は十字架の下に、罪の赦しと義の牧場を造って置かれました。まさにイエス・キリストが私たちに与えてくださった赦しと義の約束の御言葉らがその牧場で育っていますので、その約束の御言葉を私たちが受け入れることが、私たちがその緑の牧場の草を食んでいのちを得ることになるのです。

私たちが十字架の下に行ってみたら、そこには主が赦しと義の草がいっぱいに生えるようにして置かれました。「ローマ人への手紙 4章25節」に、『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』と記録されています。これはまさに、イエス様がその牧場に生えさせた草なのです。

また「ローマ人への手紙 3章23節〜26節」を見ますと、『 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』と記録されています。

このような神様の約束の御言葉は、神様が十字架の下で成長するようにされた緑の草なのです。この牧場に神様が私たちを伏させるのは、私たちにこの草を食みなさいと言うことです。私たちがどのようにしてこの草を食むことができるでしょうか?

主の御言葉を口ずさまなければならないのです。この緑の牧場、すなわち十字架の下にこのような約束の御言葉があったのかと、私たちは悟らなければなりません。そしてこの御言葉を、私たちが心の中で噛みしめ、また噛みしめながら口ずさみ、その御言葉の意味を心の中で悟り知らなければならないのです。

皆さん、聖書の御言葉は、神様が私たちを赦され、義としてくださると言う約束の御言葉です。これらはすべてが皆、緑の牧場の約束の草なのです。この約束の御言葉を口ずさみ、その次には、心に信仰として受け入れ、そして感謝し、口で是認したら、私たちがその草を取って食べるようになるのです。神様の御言葉を口ずさみ、信じ、受け入れて、感謝し、口で是認したら、神様の約束は私たちのものになるのです。

そうして私たちは、「主が私を緑の牧場に伏させ」られたのですから、そしてそこには罪の赦しと義の草を生えさせて置かれたのですから、この約束の草を私たちが思うがままに腹いっぱい取って食べて、それで私たちの腹が満たされ、赦しと義で充満にならなければならないのです。

その緑の牧場にはまた、聖霊充満の草も芽生え出ています。その草をご覧ください。「ヨハネの福音書 14章16節〜17節」に、『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。』と記録されています。

真理の御霊を世は見もせず、知りもしないが、聖霊は私たちと共に住まわれ、また私たちのうちにおられる、と言われました。この御言葉を私たちが、深く心の中で口ずさまなければならないのです。聖霊が私たちと共に住まわれ、私たちの中におられる、と言うことを心の中で思い、このことを信じ、受け入れ、感謝し、口で是認したら、この牧場の草を私たちが取って食べることになるのです。

「ヨハネの福音書 7章37節〜39節」にも、『 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』と記録されています。

神様は、イエス様を信じるとき、聖霊が人の心の奥底から、生ける川の水が流れ出るようになると約束されたのです。この御言葉を深く心の中で口ずさみ、その通りになることを信じ、受け入れて、私たちが神様に感謝し、口で是認したら、この御言葉の草を私たちが食べたことになり、私たちがその草を取って食べて聖霊充満の栄養分を摂取することになるのです。

ですから、聖霊充満の牧場で、私たちがそこに生えている神様の約束の草を思い、口ずさみ、信じ、受け入れ、感謝し、口で是認することによって私たちの栄養分として、いつも聖霊充満な人生を生きて行かなければならないのです。

また十字架の下の緑の牧場には、癒しの草むらがあります。「マタイの福音書 8章16節〜17節」に、『夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』と記録されています。この御言葉を、私たちはいつも口ずさまなければならないのです。

主が、私たちの患いを引き受けてくださり、私たちの病を背負われた、と言う事実を私たちはいつも口ずさみ、これを信じ、受け入れて、感謝し、是認したら、これが私たちには栄養分となるのです。この草が私たちの栄養分となり、私たちの癒しとなると言うことを知らなければなりません。

「ペテロの手紙 第一 2章24節」にも、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記録されているのです。

主が、私たちのためにピラトの庭で鞭打ちに会われることにより、私たちが癒されたと言う御言葉を、私たちはいつも覚えて口ずさみ、それを私たちが信じ、受け入れ、そして感謝し、口で是認したら、この癒しが私たちのものとなるのです。この癒しの牧場で、癒しの草を私たちが食べることができるのです。

「イザヤ書 53章 4節」に、『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。』と記録されています。主はまことに、私たちの病を負い、私たちの痛みを担われました。一度考えて見てください。主が、私たちの病を負われ、私たちの痛みを担われてしまったので、私たちが病に苦しみ、痛みが故に患い悩む必要がないのです。

これを深く考え、この御言葉をいつも口ずさみ、そのまま信じ、自分のものとして受け入れ、感謝し、口で是認したら、私たちはこの緑の牧場の草を食べたことになり、それは私たちの栄養分となるのです。この癒しの草の牧場で癒しの草を食べ、信じ、口ずさみ、受け入れて、感謝し、口で是認したら、いつも皆さんは、充満な癒しの中で暮らすようになるのです。

また、主の十字架の下には祝福の緑の牧場があります。「ガラテヤ人への手紙 3章13節」に、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。』と記録されています。

十字架の下で、この草が生長しております。この草を私たちは口ずさみ、「そうだ。イエス様が私たちのために呪われたのだ。だから私たちは呪われる理由がないのだ。」と信じ、口ずさみ、「信じます!」として感謝し、「私は祝福された人間だ。」と口で是認したら、その草は消化されるのです。従って、私たちは祝福の栄養分を摂取することができるのです。

「コリント人への手紙 第二 8章 9節」に、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記録されています。

この御言葉を口ずさんで見てください。主はそんなにも富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられたのです。キリストの貧しさによって私たちは富んだ者となれたのです。私たちの貧しさは、キリストによって取り除かれたのです。ですからキリストの富が私たちのものになったのです。これを悟り、信じ、口ずさみながら、「信じます!」として受け入れ、感謝し、「私はキリストの故に富んだ者となりました。」と口で是認するようになるとき、緑の牧場の草は私たちの栄養分となってくれるのです。

「申命記 8章18節」に記録されている御言葉を皆さん、大きく口に出して奉読しましょう。『あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。』

神様が、私たちに「富を築き上げる力」を与えられた、と言うのです。神様は、イエス様を信じない人たちにも雨を降らしてくださり、太陽を照らしてくださり、糧食を与えてくださいますが、主を愛する者たちには「富を築き上げる力」をも与えてくださる、と言われたのです。この御言葉をいつも口ずさまなければなりません。「神様が富を築き上げる力を、私に与えてくださったのだ。」と、これを信仰によって受け入れ、感謝し、口で是認したら、これが私たちの栄養分となってくれるのです。

そしてまた、皆さん、私たちは主の十字架の下に行って、永生と天国の緑の牧場に伏せるようになるのです。「ヨハネの福音書 11章25節」に、『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」』と記録されています。これを静かに口ずさんで見てください。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです!」ですから、私たちは死が恐くないのです。

イエス様が「よみがえり」であり、「いのち」なのです。イエス様は、既に死を征服してよみがえられたのですから、主を信じる人たちは「死んでも生きる」のです。このことを信じ、口ずさみ、「信じます!」として受け入れ、感謝し、口で是認したら、その人は死を恐れる必要がない人です。「死んでも生きる」ので、少しも恐くないのです。

「ヨハネの福音書 14章 1節〜3節」に、『 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』と記されています。

そうであるなら、私が死の向こう側に渡って行っても、住まいがなくて彷徨するようなことはないのだ、と口ずさみ、これを信じ、受け入れ、感謝し、口で是認したら、私たちは天国に私たちの住まいがあることを確実に受け入れることができるのです。

「テサロニケ人への手紙 第一 4章16節〜17節」に、『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』と記録されています。

ですから、これを口ずさむとき、突然と主がご降臨なさるのですから、イエス様を信じる人たちは皆、空中に上って変化され、主と共に永遠に暮らすようになる、と言うこのことを覚えて口ずさみ、この真理を信じ、受け入れ、そして口で是認し、感謝したら、ここに私たちが所属するようになるのです。

こんにち、数多くのクリスチャンが栄養失調にかかっています。なぜ、イエス様を信じる人たちが栄養失調にかかっているのでしょうか。それは彼らが、主が備えて置かれた十字架の下の緑の牧場に伏せって、この御言葉の草を食べないからです。彼らはただ、十字架に対して話をするだけです。しかし、十字架の下の緑の牧場に主が芽生え出るようになさった数多くの約束の御言葉を覚えて口ずさみ、信じ、受け入れて、感謝し、口で是認し、それによってこれらを自分の栄養分としたら、私たちはいつも、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得る人生を生きて行くことができるようになるのです。

私は毎日、朝、起きるや否や十字架の下の緑の牧場に行って、主が備えてくださった約束の青い草を覚えて、これを口ずさみ、受け入れ、感謝し、口で是認して、私はそれらを食べます。緑の牧場の草の約束は、いくら取って食べてもまた成長し、いくら食べてもまた生え出て成長します。私たちはそれを毎日、食べなければなりません。

皆さん、私たちが、神様が造って置かれた緑の牧場に伏させていただいていながらも、そこにある草を食べなかったら、それは私たち自身の責任です。こんにち、霊肉共に栄養失調にかかっている聖徒さんたちは、神様を怨んではなりません。何故、「私は、信仰がない。」と言われるのですか。この牧場の草を食べたら、信仰がいくらでも成長し、いつも満ち溢れ、勝利の毎日を生きることができるのです。

主は、私たちをこの緑の牧場に導いてくださいます。そしてこの緑の牧場に伏させてくださるのです。この牧場に伏させて上げても、草を食べず、これを口ずさまず、信じず、受け入れず、感謝せず、口で是認しないから、栄養失調にかかるのです。

今日から、皆さん、主が十字架の下に備えて置かれた緑の牧場、そこに神様が生え茂るようになさった約束の草を取って食べ、口ずさみ、信じ、受け入れて、感謝し、口で是認することによって皆さんの栄養分となさいますよう、主の御名によって祈願します。




第二、「いこいの水のほとり」

第2番目に、私たちの羊飼いは、私たちを「いこいの水のほとり」に導いてくださると言われました。聖霊さまは、私たちのたましいを安らかにしてくださり、慰めてくださる水となられるのです。皆さん、聖霊さまと交わりを持ち、聖霊さまと親しくなったら、私たちの心の中が清涼になり、私たちの渇きと焦りが満足で満たされるようにます。

「ローマ人への手紙 8章26節」に、『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』と記録されています。

私たちが、問題にぶっつかって戸惑い、右往左往しながらどうして良いか知らずに苦悶に陥っているとき、聖霊さまは私たちを伏して祈るように導いてくださり、私たちを通して聖霊さまが切実に祈ってくださることによって、問題が解決されるようにしてくださるのです。ですから、聖霊さまとの交わりがいつも保たれていなければなりません。聖霊さまを認め、迎え入れて、拠り頼んだら、聖霊さまと一緒に暮らすようになります。

聖霊さまは、私たち人生と一緒に暮らすために来られたのです。聖霊さまは、知恵の御霊であり、全能の御霊です。私たちに知恵が不足するときには知恵を与えてくださいます。明哲が不足するときには明哲を与えてくださいます。私たちが何をどうしたら良いか知らないときに祈ったら、素晴らしいカウンセラーとなってくださいます。そして私たちに才能を与えてくださって能力を得させてくださり、私たちに悟りを与えてくださって知識を得させてくださり、神様を畏敬するように助けてくださいます。その上にまた、聖く暮らすように力を与えてくださるのです。

このように聖霊さまは、皆さんと私の人生同業者なのです。聖霊さまは私たちと共に暮らすためにいつも私たちの傍に居てくださるお方なのです。それで、聖霊さまに拠り頼めば、私たちはいこいの水のほとりで清涼な水を飲むようになり、渇きや焦りが消え去ってしまうのです。

また、聖霊さまを通していつも神様の御国が私たちの中に臨んでいるのです。「ローマ人への手紙 14章17節」に、『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。』と記録されています。聖霊さまが来られて、私たちの心の中に義と平和と喜びで満たしてくださって、天の御国が私たちの中にいつも満たされているようにしてくださるのです。

「コリント人への手紙 第二 6章16節」に、『神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」』と言われました。

このように、私たちの羊飼いは私たちを「いこいの水のほとり」に伴ってくださって、聖霊さまと共に居るようにしてくださり、私たちをいつも平安に満ち、渇きとか焦りがなく、爽快な生活を営むことができるようにしてくださるのです。




第三、「私のたましいを生き返らせます」

第3番目に、「主は私のたましいを生き返らせます」と言われました。この世の生活の中には、罪と世俗と肉体の欲情と悪魔のしいたげにより、心配、懸念、不安、焦燥、憎悪、怨み、嫉妬…などがたましいの生命力を奪い、この世の眠りに落ち込むようにします。このような悪霊の仕業が、まさに油虫があらゆる野菜にくっついてその野菜を萎れしぼむようにしてしまうのと同じく、私たちに食い付き回ってたましいの生命力を奪い、私たちを眠りこけるようにします。

それで、主日に礼拝を終えて、月曜日から土曜日まで世の中で暮らすうちに、いつの間にか神様に祈ることもせず、賛美も忘れてしまい、聖書を読むこともしなくなり、なぜか心が息苦しくなるのです。世の中で暮らすうちに、私たちは知らぬ間に私たちのたましいが眠ってしまい、力を失ってしまうようになるのです。しかし、私たちが教会に出席して御言葉を聞いたら、御言葉が私たちのたましいを生き返らせてくれます。

「詩篇 119篇49節〜50節」に、『どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。』と記録されています。主の御言葉が私たちを生き返らせてくれるのです。皆さんが御言葉を聞いているあいだに、御言葉が皆さんの中に臨んで、この世の塵や芥を洗い流してくださり、生き返らせてくださるのです。

また、聖霊さまの生気で生き返らせてくださいます。皆さんが教会に来られて礼拝を捧げるときに、聖霊さまが私たちのたましいに生気を注いでくださるのです。「コリント人への手紙 第二 1章22節」に、『神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。』と記録されています。礼拝を捧げるとき、聖霊さまがみわざを働かせて、私たちの心に救いの確信が再び認識されるようにしてくださるのです。

「エゼキエル書 36章26節」に、『あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。』と記録されています。この世の故に石のように冷たく、硬くなった心を主が取り除いてくださり、礼拝を捧げるときに聖霊を通して私たちに新しい心を与え、新しい霊を授けて、私たちのたましいが生き返るようにしてくださるのです。

そして、教会に来て私たちが一緒に祈るときに、祈りによって私たちのたましいが生き返ります。「ヘブル人への手紙 7章25節」に、『したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。』と記録されています。私たちが祈りを通して主のもとに出て行ったら、主が私たちを完全に救ってくださるのです。

主はまた、私たちが賛美を捧げるときに、私たちのたましいを生き返らせてくださいます。「詩篇 22篇 3節」に、『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。』と記録されています。皆が一緒に主を賛美し、喜ぶとき、主の御霊が臨まれて、私たちのたましいを生き返らせてくださるのです。

そして私たちが、教会に来て聖徒同士が互いに挨拶し合い、握手し合うときに、聖徒たちの交わりを通して神様が私たちを生き返らせてくださるのです。「テサロニケ人への手紙 第一 5章14節〜15節」に、『兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。』と記録されています。

私たちがお互いに交わり合いながら、お互いに戒め合い、励まし合い、助け合い、そしてお互いに悔い改めさせ合い、お互いに寛容であるとき、私たちのたましいが生き返るようになるのです。ですから、私たちがこの世を生きながら教会を遠くしてはいけません。区域礼拝や水曜礼拝、或いは早天祈祷会…など、できるだけ多く集まることによって、私たちの「羊飼い」がこれを通して私たちのたましいを生き返らせてくださるのです。

この世の罪と貪欲と世俗によって萎れ、病に罹り、眠りこけ、死んで行くたましいを、神様が集会を通して、御言葉と聖霊と交わりを通して、私たちのたましいを生き返らせてくださるのです。これらはすべて、私たちの「羊飼い」であられる主がいつも、皆さんと共に居てくださりながら、このようなお恵みを施してくださるのです。




第四、「義の道に導かれます」

第4番目に、私たちの「羊飼い」は、私たちを義に道に導いてくださいます。私たちは、生活の環境が不正・腐敗で腐って行く現実を毎日毎日目で見ています。いくら摘発して拘束し、刑務所が満員になるまで収容しても、変化がありません。その理由は何でしょうか。義の根源であられるイエス様が心を占領してこそ、良心のともし火が明るく照らされるようになるのです。良心が死んで真っ暗いですから、その中で何でも仕出かすのです。良心のともし火が明るく照らされ、周囲が明るくなったら、暗いことはすることができなくなるのです。

皆さん、義は塩と同様なので、義がない人は肉的に腐敗します。心の中に義がなかったら、心の中のともし火が消えているので暗くなります。塩がないものは腐って行きます。従って、義がない人は肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求し、暗い所でいくらでも罪を犯しながら腐敗して行くのです。

義であられるイエス・キリストが家庭に明るいともし火となって火をつけて置いたら、その家庭は明るくなりますが、義がない家庭にはあらゆる腐敗が入って来て、旦那さんは奥さんを騙し、奥さんは旦那さんを騙し、不正を行い、淫乱・放蕩に走って、数多い家庭が破壊されていきます。義がなかったら良心のともし火が消えているので、良心のともし火が消えている家庭は正しく生きて行くことができないのです。

義がない政府は腐敗します。皆さん、義がないところでは、良心のともし火がすべて消えています。高官や幹部クラス、及び一般の公務員たちが暗い良心を持つようになり、何でも手に入ったらみなポケットにしまい込むのです。この頃、新聞やTVを見ますと、不正腐敗によって拘束され、逮捕され、刑務所に数限りなく放り込まれるのを見ます。何故でしょうか?良心のともし火が消えているところでは、いくら刑務所に放り込んでも暗い中では腐敗が継続するのです。

義がない企業は腐敗します。イエス・キリストが居なければなりません。明るい良心のともし火が点いていない企業は、知恵をふりしぼって脱税しようとします。国が滅ぼうが社会がどうなろうが構いません。自分の利益だけを追求するのです。それでいつも不正腐敗が企業の中から生じるのです。

こんにち、私たちが何故IMFに遭ったでしょうか。韓国の大企業とか中小企業とか誰彼問わずすべてがみな、不正腐敗したからです。その不正腐敗が結局は全韓国を経済的にどん底に落とし入れてしまったのです。イエス様がなく、良心がなく、ともし火が消えた暗い社会が、正しく運行されるわけがありません。全社会が暗く、ソウル全体が暗かったら、盗賊も生じ、油虫も生じるのです。暗いところでは皆さん、正しい道を探し出すことができないのです。

義が発電所であるとしたら、人の良心は電灯です。イエス様はまさに発電所なのです。良心を明るくする電灯を点けるようにしてくれる発電所がまさにイエス様なのです。イエス様が私たち個人にも、家庭にも、企業にも、社会にも、入って来ておられてこそ、良心の電灯が真昼のように明るくなるのです。良心の電灯が明るく点されていない以上は、いくら法律を作っても役に立たず、いくら刑務所を建てても効用がありません。それは、暗いところでは明るいことが生じるわけがないからです。良心の電灯は、イエス・キリストが入って来られてこそ点けられるのです。

「テトスへの手紙 2章11節〜14節」に、『というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。』と記録されています。

このようなみわざは、まさに私たちのために十字架で死なれてからよみがえられた、義の発電所となられるイエス・キリストが私たちの中に入って来られてこそ、そして良心の電灯が明るく点けられてこそ、義と平安と喜びが現われ始めるのです。そして、聖と真実が私たち個人と、家庭と、生活と、世界の中に現われるようになるのです。

ですから皆さん、イエス様がなしには義がありません。しかし我が主は、私たちを義の道に導いてくださいます。義があったらすべてのものが生き返ります。すべてが明るくなるのです。義と平安と喜びが満ち溢れるようになるのです。イエス様が「羊飼い」となられたら、私たちの人生が希望に満ち、幸福になります。結局は、乏しいことがないように主が顧みてくださるのです。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」IMFを通して私たちは、不足症候群が心にいっぱいになって、不安、焦り、否定的意識、敗北意識で悩んでおります。私たちがこれらを克服して、肯定的、積極的、創造的、生産的な人生を生きて行くためには、私たちの主イエス・キリストを心に深く迎え入れなければなりません。

キリストが私たちの「羊飼い」となられるのですから、主が、私たちを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われるのです。また私たちのたましいを生き返らせ、御名のために私たちを義の道に導いてくださるのです。

このキリストが共に居てくださってこそ、そして私たちの「羊飼い」として、私たちの中にみわざを働かせて下さってこそ、はじめて私たちのたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得るようになるのです。

このようなことは、教育でできるものではありません。政府の機関がこれを成してくれるものでもありません。律法の判断がこれを成すこともできません。私たちのたましいの中に大きな変化が起こらなければなりません。この変化は、私たちの「羊飼い」であられるイエス・キリストに従って行くときに、主が成就させてくださるのです。




お祈り

愛であられ、聖き、我が父なる神様! 私たちの「羊飼い」イエス・キリストを与えてくださり、私たちをこの不足症候群から解放させてくださって有り難うございます。主が施してくださった十字架の下の緑の牧場に、私たちをいくら引っ張って行って伏させてくださっても、私たちがそこの約束の草を口ずさみ、信じ、受け入れ、感謝し、口で是認することによって所有しなければ、私たちの栄養にはなりません。いくらご馳走をつくって食事をととのえてくださっても、食べないことには自分のものとすることができません。

全知全能であられる、我が天のお父さま! 今日、主が、私たちのために緑の牧場を備えられ、私たちをそこに伏させてくださいました。有り難うございます。私たちの主であられる神様! 赦しと義の緑の牧場、癒しと喜びの牧場、祝福と繁栄の牧場、永生と天国の緑の牧場があることを悟らせてくださって感謝です。この牧場で私たちが永遠に、主の約束の草を口ずさみ、信じ、受け入れ、感謝し、口で是認して、私たちのものとすることができるように助けてください。

そして、私たちが癒していただき、祝福していただけるようにお恵みをほどこしてください。

私たちは、心より神様を愛しております。主よ! 私たちの牧者として、私たちのところに来られて私たちの手を取り、私たちを導いてくださって本当に有り難うございます。

いつも私たちのたましいを生き返らせてくださる神様! 今日も礼拝堂に集まって、礼拝を捧げることを通して私たちすべての聖徒さんたちのたましいが生き返るように助けてください。この世の中ではすべてに打ち勝ち、すべての人たちのたましいが生き返り、主を信じる信仰で満たされるように助けてください。

義であられる、我が父なる神様! ここに集まっているすべての聖徒さんたちの良心の電灯が明るく点じられるように助けてください。良心のともし火が消えたら、全天地が暗くなります。イエス様が私たちの義の発電所です。主によって、私たちの良心の電灯が明るく点されて、その光明に従って暮らす私たちとなるように助けてください。そうしてくださることによって、私たちの人生がまことの祝福と永生を得ることが出来るように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!