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「わたしの父の家」
 






■聖書箇所

「詩篇 23篇 6節」
23: 6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。




今日、私は皆さんたちとご一緒に『わたしの父の家』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

「エデンの園」は、アダムとエバが住むように神様が造られた、至極美しい家でありました。そこは、住まいと庭園と果樹園など、あるべきものはすべて備えられたところでありました。

そこから追い出されたアダム夫婦は、そのときから自分たちの住まいを自分たちの手で直接作らなければなりませんでした。原始時代には、土窟の住まいも作り、または木の葉や草で家を作って、その中で暮らしました。この世を暮らすあいだ、住むべき家がないと言うことは大きな不安であり、悲しみです。それで人たちは、どんなにかしてでも自分の家を持ちたいとして必死に努力し、切実に願っているのです。

しかし、この世の家がいくら素晴らしく美しいと言っても、100年足らずで私たちはそこを永遠に離れて行かなければなりません。死は、私たちの家から私たちを情け容赦なく追い出してしまうのです。この世の家と、この世の生活から追い出されるとしたら、私たちは一体どこに行かなければならないでしょうか?




第一、金持ちとラザロの人生と、死とあの世の生活

聖書「ルカの福音書 16章19節〜31節」に、金持ちとラザロと言う貧乏人に関するお話しがあります。ある金持ちがいました。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました、と記されています。この金持ちが「紫の衣を着ていた」と言うことは、権勢があったと言うことを意味します。そのときには権勢がある人だけが紫の衣を着ることができたのです。

また、「細布を着ていた」と言うことは、お金持ちであったと言うことです。この金持ちは豪壮な家を持っており、物質的にも豊かで、素晴らしく高価な着物を着て、そして快楽主義で暮らしながらあらゆる悦楽を自分のものとして、何一つ不足がないぜいたくな生活をしていましたが、ただ一つ、あの世に関しては全く無関心であり、知識もなく、何の準備もしていませんでした。

ところが、その家の門前にラザロと言う貧乏人が寝ていました。その貧乏人は家がないので、金持ちの家の玄関の外の軒下で暮らしていました。そして、彼は物質的に貧しいので、金持ちの食卓から落ちる物でも食べたいと欲しがりながら暮らしました。からだも病気で衰弱しきっており、全身がおできで、町の犬どもが来てそのおできをなめていました。しかし、彼はこの世に持ち物とは何もありませんでしたが、彼は心の中に天国への希望と信仰をもって生きていました。

歳月が経ち、お金持ちもその貧乏人も死を迎えるようになりました。「ルカの福音書 16章22節」を見ますと、『さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。』と記録されています。

貧乏人ラザロの死は、人たちの冷遇の中でぞんざいに取り扱われました。彼は軒下の端で、誰からも顧みてもらえずに、全身が冷たくなっていきました。喉が渇いて苦しみましたけれども、誰ひとり彼のくちびるに水一滴濡らしてはくれませんでした。侘しく、孤独に、彼は息を引き取ってしまいました。

彼が死んだ後に、人たちは彼を名もない墓地に投げ捨てるが如くに埋葬しましたが、聖書は、「この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。」と記録しています。アブラハムがいるところは、豪壮な家もあり、紫の衣や細布もあり、環境的に幸福が満ち溢れるところです。そこに貧乏人ラザロは入って行った、と言うのです。

このラザロは、この世で暮らすときには持ち物とは何ひとつありませんでしたが、彼がこの世を去ってあの世に行ったときには、主が備えて置かれた天国に入って行って、極楽を享受する幸福な人となった、と言うのです。

お金持ちも死にました。豪華燦爛たるお葬式が開かれました。花でいっぱいに飾られた棺桶を担いで、人たちは悲しみに満ちた歌を歌いながら、そして長々とした行列をととのえながら墓地に向かいました。豪華な墓地には弔問客が雲のように集まって来ました。しかし聖書は、「その金持ちは、ハデスで苦しんだ…。」と記録しています。地獄に落ちて、消えない火の燃える中で、家も、衣服も、幸福もない、地獄で苦しんでいると言うのです。他の人が言ったのではありません。私たちの主イエス様がそのように仰せられたのです。

「ルカの福音書 16章23節〜26節」を見ますと、『その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 彼は叫んで言った。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」 アブラハムは言った。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」』と記録されています。

この金持ちは、千年も万年も永遠に…この世で栄華を欲しい侭にしながら暮らせると思いました。ところが死は、瞬く間に彼を美しく豪壮な家から追い出してしまいました。貧乏人ラザロは死ぬや、御使いたちによって天国に導かれました。

皆さん、人は神様ご自身のかたちに創造されました。それで、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言われたのです。人は霊として肉の幕屋を着て生きます。そして肉の幕屋がこわれたら、霊は永遠に離れて行ってしまうのです。それで私たちのからだを聖書は「幕屋」だと表現しているのです。太陽が照り輝いたら熱く、風が吹いたら吹かれ、気温が下がったら寒い…、このような環境の支配を受ける幕屋なのです。幕屋はいつかは朽ちてこわれてしまいます。私たちのからだの幕屋は、必ず崩れます。

私は、このようなお話しを聞いたことがあります。あの有名なナイアガラ瀑布の上流で、男女一組がボートに乗って楽しく過ごしておりました。彼らは腹いっぱいに食べ、それからお酒も存分に飲みました。そして二人は一緒に眠りに落ちました。とても高いナイアガラの上流でありましたので、彼らは大丈夫だと安心して眠りこけてしまったのです。

彼らが眠っているあいだに、ボートは流れに従ってナイアガラ瀑布に近づいて行きました。それを見た両岸の観光客たちが大声で叫びました。「危ないぞーっ…!」「早く岸に漕いで来い…!」いくら叫んでも、二人は全然反応しませんでした。ところがボートがますます瀑布に近づくや、ボートが波にぶっつかりながら揺れだしました。そのときになって二人は目を覚ましました。ところが時既に遅しで、ボートは遂にナイアガラの瀑布に落ち込み、その男女二人はそのまま死んでしまったと言います。

人生とは、このように時間のボートに乗っているも同様なのです。瞬く間に、私たちはボートが死の絶壁に落ち込むのを体験するようになるのです。聖書は、この世で富貴・栄華・功名を享受して暮らすとして、それが永遠に長続きするものではない。また、この世で襤褸をまとい、飢え、苦しみに会うとして、永遠に継続してそのような目に会うのではない、と記録しています。




第二、私たちに永遠の住まいを与えるために来られたイエス様

私たちが心の中で、天国や地獄を知り、天国を準備していなければ、いつかは私たちは天国の栄光を失ってしまい、地獄にまっさかさまに落ち込んで行くしかないと言う、この事実を主が警告されたのです。それで、私たちに永遠の住まいを与えてくださるためにイエス様がこの世に来られたのです。

イエス様が何が故に、天の御座を捨てられ、肉の着物を着てこの世に来られたでしょうか。私たち人生が自分のものとすべき天国があり、避けなければならない地獄があるからなのです。天国があまりにも栄華に満ち、美しく、地獄があまりにも恐ろしく、苦しいところですので、主は私たち人間たちに地獄を警告し、地獄に行かずに、救いを受けて天国に行くようにするためにこの世に来られたのです。

「ヨハネの福音書 14章 1節〜3節」に、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』と記録されています。

皆さん、死よりももっと恐いのは、死の川を渡った後に、住まいがないと言うことです。私たちが肉の幕屋を離れて行くとき、それからは住まうべき居所がありません。行きところがないのです。捨てられた人生となり、存在がない人生となった、と言うこれがもっと恐ろしいのです。死んでからその後に、川の向こう岸の丘の上に美しい家がある。信仰でそこに行こう。黄金の家、美しく、栄華に満ちた私たちの住まいがある、と言うことを知ったら、死はそんなに恐いものではありません。

しかし、死んだ後に行き所がなく、捨てられてしまい、神もおられず、生もないところに捨てられる、これが一番恐いのです。漆黒の真っ暗闇、地獄に落とされる…ことがいかに悲惨なことでしょうか。

「ペテロの手紙 第二 2章17節」に、『この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。』と記録されています。皆さん、光とはまったくなく、全天地のどこを見ても真っ暗闇だけがあると言う、このことはいかに悲劇的なものでしょうか。

「マタイの福音書 25章30節」には、『役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。』と記録されています。暗やみに追い出されてどんなに悲しいのか、そこで泣き、歯ぎしりすると言われました。苦しくなく、悩ましくなかったら歯ぎしりするはずがありません。あまりにも苦しく、悩ましいので歯ぎしりするのです。

「マタイの福音書 13章42節」には、『火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。』と記録されています。皆さん、田舎に行ってみたら、鍛冶屋がふいごを押したり引いたりしますと、それが送風機の役割をして風が吹き入れられ、炉の火が炎々と燃え盛ります。そこに鉄の素材を入れて真っ赤に焼き入れをします。そのように熱く、恐ろしい、燃える炉の中に投げ込まれると言うのです。

それで私たちの主は、これらをすべて避けて、私たちが永遠に暮らすことができる、美しい父の家に私たちが行くことを願われます。天におられる父なる神様が、私たちのために備えておかれたあまりにも美しい家に、私たちが行くようにと願っておられるのです。ここにイエス様が行かれて、私たちのために住まいを備えてくださるのです。

皆さん、私たちは、私たちの父の家に行く道を知りません。アダムとエバ以後、エデンから追い出されたそのときから私たちは道を失った者たちとなり、見捨てられた者たちとなりました。この世に暮らしながら、肉の欲、目の欲、この世の自慢だけを追求し、地を見下ろして土だけを掘りながら生きて来たので、天国に行く道を私たちは知らないのです。

天国に行く道をいくら探そうとしても、罪悪と死の深い渓谷だけです。その罪悪の渓谷、死の渓谷を通って天国に行ける人はありません。その渓谷に落ちた人はすべて滅亡されてしまい、生きて戻ってくることができた人は一人もありません。

ところがイエス様が来られて、私たちのために十字架に釘付けられ、身を裂き血を流して、私たちの罪を贖われ、死なれて陰府(黄泉)に下って行かれてから三日目によみがえられることによって、罪悪と死の渓谷を埋められて、私たちが渡って行くことができる道となってくださったのです。イエス様だけが罪悪と死の渓谷を渡って行ける道です。

イエス様を離れては、この渓谷を渡って行ける道が他にはありません。イエス様が、「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。ペテロは、「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と言ったのです。

キリストと言うこの道を私たちが無にしたら、私たちは罪悪の渓谷、死の渓谷に永遠に落ち込んで、滅亡されるしかありません。イエス様がこの世に来られたのは、皆さんと私に道となってくださって、イエス様を通して私たちが滅亡を免れ、永遠なる天国に入って行くことができるようにするために来られたのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されて、誰でも、男女、老幼、貧富、貴賎…を問わずにイエス様を信じたら、滅びることなく、永遠のいのちを持つ、と聖書に記録されています。誰でも、主の御名を呼ぶものは、みな救われます。これはいかに驚くべきお恵みでしょうか。

神様は、私たち人生が自らは絶対に天国に昇って行くことできないことをご存知なので、ひとえにイエス様を信じることによって救われることができる道を備えて置かれたのです。ですから、「私は知識がないので救いを受けることができなかった。」とか、「宗教的な儀式と形式を執行することができなかったので、救いを受けることができなかった。」とか、言うことはできません。

今からは誰でも、イエス様を信じることができるのです。ただ信じたら、その信仰を通して、私たちは天国に入って行くことができるのです。

イエス様を信じ、私たちがこの世で暮らしながら熱心に礼拝を捧げ、主に献身的に仕え、忠誠を尽くすことは、信仰を通して私たちが主の御国に材料を積み上げる結果を招きます。その材料を持って主が、私たちのための美しい家を天国に備えられるのです。主が、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」と言われました。

皆さん、天国に昇って行って見たら、私たちの住まいがみな同じのではありません。凄く栄光な住まいがあり、または平凡な住まいがあります。この世で暮らす間、主の御名のために私たちが奉仕し、献身しただけの材料が天に上げられて行って、その材料で私たちの住まいが建てられるのです。内外装工事が終わったら、神様は一人、二人…私たちを召されるのです。

私が「デジョン(大田)」で集会を導いたとき、その教会の牧師先生が私にこのようなお話しを聞かせてくださいました。私たちの教会に出席しておられる長老さまの一人が、この教会を建てるとき、あまりにも協力してくださいませんでした。その方は凄くお金持ちですが、なかなか建築献金をして下さいませんでした。私たちは教会建築を中途で止めて、傷心していました。ところがこの長老さまが突然、心臓麻痺で亡くなられました。

長老さまの死体の周りにお子さんたちが集まって慟哭し、親戚の方たちも来て、泣いておりました。ところが、死んでいたその長老さまが生き返りました。その長老さまは生き返るや否や、お子さんたちに向かって大声で言いました。「私所有の土地をみな売りなさい。建物もみな売りなさい。それらをみな売り払って、教会を建てなさい…。」お子さんたちが皆、びっくり驚き、戸惑いました。

そして、死んでから生き返った長老さまが次のような話しをしました。「私は死んで、天使たちに取り巻かれて天国に行ったよ。果して天国は美しい所だったね。天使たちに案内されて行きながら、私は数多い星を見たよ。天国に入って行ったところ、主が喜ばしく迎え入れてくださったね。そこで、主が『あなたの家を見てみなさい。』と言われたので、はい、と答えて進んで行きながら見たところ、素晴らしい家が非常にたくさんあった。私たちの教会で毎日朝、教会の床を掃きながら掃除していた寡婦のお婆さんの家もそこにあったが、通り過ぎながら見たところとても素晴らしい家だったよ。このお婆さんの家がこんなに素晴らしいんだから、私の家はもっと凄く立派だろうな、と思いながら、尚進んで行きました。

ところが、そこからは家がだんだんと小さくなっていくのだった。それで案内の天使に、『道を間違えたんじゃないでしょうかね?私たちの教会で床を掃除していたお婆さんの家があんなに立派なのに、ここからは家がだんだんと小さくなっていきますよね。私は、そのお婆さんより高い階級で、長老だったんですよ。ところがここからは家が小さくなって行くじゃないですか。道を間違えたんじゃないですか…?』と聞いたら、『黙ってついて来なさい!』と、案内の天使は答えるのだった。

それで、私は黙ってついて行きました。いくらかもっと進んで行ったところの隅のほうに、小さなあばら屋のような家がありました。『これが、あなたの家です。』と天使が言うのであった。それで私が、『私の家がなぜ、こんなに小さいんですか?』と聞きました。すると天使が答えました。『あなたは世の中で暮らす間、長老であり、神様が祝福して下さって物質的にも裕福でありました。ところがあんたは、神様に対して何もしていない。しかしその寡婦は、自分にある持ち物をほとんどみな神様に捧げ、早天祈祷会のときごとに早く起きて火を入れ、教会を掃除しました。その功績が天に上って来たので、このように良い家を建てることができるようになったのです。あなたは功績がありません。それで、このあばら屋で永遠に暮らすようになったのです…。』

長老は天使のすそを捉えて、一生懸命に頼みました。『私を、今度一回だけ赦してください。そして世の中に降りて行くようにしてください。そうしてくださったら、私が本当に教会を立派に建てて、そして神様の事業をたくさんしてから帰って来ます。私にどうか機会を与えてください…。』長老は泣き喚くように叫びました。すると、それをご覧になった主が言われました。『そうか。それなら、あなたが約束した通りに、行って、教会を建て、神様の事業を熱心にして帰って来なさい。』それで、長老は生き返った。」と言うのでありました。

その教会の担任牧師さまが「コ(高)」先生でありましたが、その「コ」先生が回顧するように私に言われました。「その長老さまが、死んでから生き返ったお蔭で、私たちの教会は立ち直ることができました。その長老さまが全財産を売って教会を建ててくださり、色々なかたちで献身してくださったお蔭で、今の教会になれることができました。」

皆さん、私たちがこの世で主のために苦労をしたら、主はそのすべてを返してくださいます。主が、「もっと費用がかかったら、わたしが帰りに払います。」と言われたのです。私たちの主は、私たちの道となってくださるので、私たちが天国に上げられるのは間違いないことですが、天国に昇って行って私たちが享受する永遠の栄光は、この世で主のためにどれ位献身し、働いたか、これが材料になるのです。

人たちは、「果して、死んだ後に天国があるだろうか?」と言います。皆さん、使徒パウロ先生は、ご自分が直接体験した天国に関して明らかに証しをなさいました。パウロ先生は、「コリント人への手紙 第二 5章 1節」で、『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』と言いました。この世で、私たちが住んでいた肉の幕屋がこわれたら、人の手によらない永遠の住まいが私たちにあることを知っている、と彼は言ったのです。

なぜかと言えば、パウロ先生は体験をしたからです。彼がルステラで福音を宣べ伝えていたとき、ユダヤ人たちの石打ちに会って死にました。ユダヤ人たちはパウロを町の外に引きずり出して捨てました。しかしパウロは、弟子たちが取り囲んで祈るときに生き返りました。彼はその間、天国に上って行ってから降りて来る驚くべき体験をしたのです。

「コリント人への手紙 第二 12章 1節〜4節」に、『無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。 私はこの人が、・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。・・ パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。』と記録されています。

彼が天国に上って行ったのですが、あまりにもはっきりしているので、肉体のままであったか、肉体を離れて霊だけが上って行ったのか、区別することができないと言うのです。そんなにまではっきりと、第三の天にまで引き上げられ、パラダイスで、到底人間としては言葉で表現することができない美しい壮観を見、口に出すことのできない言葉を聞いた、と言うのです。このような体験をしたパウロ先生は、残った余生をいつも天国を慕いながら暮らしました。

「ピリピ人への手紙 1章21節〜23節」に、『 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。』と記録されています。

この世で暮らしたら、もっと多くの主の事業に励み、もっと多くの聖徒さんたちを助けることができるので良く、世を去ったら主と直接ともにいることになるから、その方がはるかに優っているが、とにかく、その二つの問題の間に板ばさみになって苦悶している、とパウロ先生は告白しました。

使徒パウロ先生と私たちはあまりにも違います。世の人たちは「犬くそ扱いされても、この世で暮らすのが良い。」と言います。それは、天の御国の栄光をほんの僅かも見ることができないからそう言うのです。

ペテロも、彼が肉の幕屋を脱ぎ捨てる日が間近に迫っているとして、死ぬ日を悲しく思わずに、期待でいっぱいに満ちていました。「ペテロの手紙 第二 1章12節〜14節」に、『ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。』と記録されています。

地上の幕屋を、もう自分も脱ぎ捨てて、この世を去って行く日が間近に迫っている、と言う事によって、ペテロはこの世で永遠に生きないことをはっきりと証言したのです。




第三、ヨハネが見た天国の姿

使徒ヨハネは、パトモスと言う島に島流しされていたとき、主の日に祈っている途中、聖霊に感動されて美しい天国を彼は見ました。彼は、「ヨハネの黙示録 21章 1節〜7節」に、『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。』と記録しています。

主が、いかに美しい場面をパトモスの島でヨハネに見せてくださったことでしょうか。彼は、新しい天と新しい地とを見た、と言うのです。呪いが雨のように降り、戦争と戦争の噂が騒々しく、戦争と飢饉が起こり、苦痛と罪悪でいっぱいに満たされた、朽ちかけているこの世の姿ではありません。主が熱烈な火で天と地を焼き尽くされ、新しく造った新しい天と新しい地とを見たのです。

それだけではありません。天から新しいエルサレムが下って来るのを見ました。新しいエルサレムが月のように、宇宙の空間に浮いているのですが、それがいかに美しいことか、花婿のために飾られた花嫁のように整えられていたと言います。私は結婚式でメッセージを宣べ伝えるときが多くあります。それで花嫁を見る機会がたくさんありますが、着飾った花嫁はすべてがみな天使のように美しく見えます。ヨハネは他の言葉ではとても表現することができませんでした。それで、花婿のために飾られた花嫁のように美しく整えられていたと言ったのです。

まさにそこが、よみがえった聖徒さんたちが入って行ってイエス様と共に永遠に暮らす家となるのです。

ところが、この主の日が「盗人のようにやって来ます。」とペテロが言いました。「ペテロの手紙 第二 3章10節〜13節」に、『しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。』と記録されています。

皆さん、台湾に地震が襲って来たのをご覧下さい。夜明け前の深い眠りに落ちていたとき、突然、天地を震動させる地震が襲って来て、数千名の死傷者を出し、国の経済が揺れ動きました。それは何とも言えない「不可抗力的」な力でありました。

小さい地震が襲って来ても、一つの国の経済全体が崩れかけます。ましてや、天が大きな響きをたてて消えうせ、地と地の色々なわざが焼き尽くされるとき、その神様の御怒りの審きから逃れ得る人間がこの世にあるでしょうか。どの誰も避けることができないのです。ですから、私たちは眠りから目を覚まして、イエス・キリストを救い主として向かい入れ、敬虔に暮らし、この世の旅人とか居留者のように暮らし、主が再臨なさる日に、「主よ。私がここにおります。」としてそのまま主から引き上げられるようにならなければならないのです。

私たちが入って行くべきところは、新しいエルサレムです。新しい天と新しい地とを支配される神様の都が新しいエルサレムなのです。ここで、イエス様の花嫁たちが主と共に暮らすようになるのです。都の中には、聖殿が見えませんでしたから、全知全能なる神様とその子羊が聖殿となるのです。花婿のために着飾られ整えられた花嫁のように美しいそこで、神様が親しく支配してくださるのです。

神様はいのちの源泉であられ、根源であられますので、神様が支配なさるところには涙がありません。死がありません。悲しむことがありません。泣くことがありません。痛いことがありません。では、その代わりに何があるでしょうか。

いのちの水の川があります。いのちの水の川が溢れるようにしてくださいますので、神様と子羊との御座から出るこのいのちの水の川で私たちは水浴をし、いのちが満ち溢れるようになるのです。また、いのちの水の川の両岸にはいのちの木があります。それらは十二の実がなる果実の木です。その果実を食べたら、たましいの中にいのちと喜びと希望が満ち溢れるようになるのです。それらの木の葉は、新しい天と新しい地に住む人たちを癒すいのちの源泉となるのです。

「ヨハネの黙示録 22章 1節〜4節」を見ますと、『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。』と記録されています。

またと夜がなく、主であられる神様が光となられ、私たちは主と共に永遠に王としてそこで暮らすようになるのです。「ヨハネの黙示録 21章23節」に、『都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。』と記録されています。

夜がありません。神様が光となられ、イエス様が光となられるのです。またと夜がなく、太陽も月も要らないのです。主が私たちを照らし、私たちは主と共にいのちの中で王となるのです。「ヨハネの黙示録 22章 5節」に、『もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。』と記録されています。

そして、この世で成長する数多い肉の選民たちを、私たちが顧みて上げ、支配するようになるのです。私たちの「羊飼い」となられるイエス様が慈しみと恵みの御手で、一生涯、私たちを顧みてくださり、終局には私たちの父の家に導いてくださって、そこで永遠に暮らすようにしてくださるのです。そこは、本当に喜びがいつも溢れるところです。私たちより先立って行かれた聖徒さんたちと会って抱き合い、喜び踊りながら楽しむところです。

主を信じない人たちは、死ぬときに悲しみ泣きます。それは、彼らは再び会えないからです。私たちは、主の御再臨のときに主が私たちをみな連れて来られます。それで、私たちは天国の門の前でみんなが会うようになるのです。聖徒の死は暫くの間の離別であって、永遠の離別にはならないのです。

「テサロニケ人への手紙 第一 4章13節〜14節」に、『眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。』と記録されています。

希望がない人たちは、主を信じない人たちです。この人たちは希望がありません。自分自らも希望がなく、先立って行った人たちに会う希望もありません。しかし私たちは、主を信じ、先立って行った人たちと主が共にいてくださり、また御再臨のときに一緒に連れて来られる、と言われたのです。

私たちは昇って行き、天からは主が彼らを連れて下って来られますので、私たちは皆、「ハレルヤ!」と呼ばわりながら、互いに抱き合い、喜び合い、そして主と共に永遠に、永遠に暮らすようになるのです。

愛する聖徒の皆さん、この世で私たちが住む家は、いくら豪奢であり、美しくても、100年足らずでみんな捨てて離れて行くようになるのです。いくら美しく綺麗な青春も、100年を持ち続けることはできず、みなこわれた幕屋になってしまうのです。しかし私たちには、人の手によらない永遠の家が神様によって備えられており、それが私たちのために待っているのです。

金持ちであろうが、貧乏人であろうが、誰彼を問わずに、やがて私たちはこの世を離れるようになります。その日、永遠の絶望と挫折と悲しみで泣き喚きながら地獄に落ち込まずに、ハレルヤ!と叫びながら、賛美と栄光の天国に入って行って、主と共に永遠に暮らす皆さんとなりますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。




お祈り

全知全能であられる、我が父なる神様! 主のお恵みと愛を思うとき、本当に涙ぐむほどに感謝です。私たちが何でしょう。うじのように泥沼でうごめく私たちを選ばれて、新しく生まれ、霊なる神様の子となるようにしてくださり、イエス様と言う橋を渡って、あの罪悪の渓谷、険しい死の渓谷を通り越え、天国に入って行けるようにしてくださって、どんなに有り難いか言葉では表現することができません。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」と、死を叱咤した使徒パウロのように、私たちも死が恐くありません。

愛であられる、我が天のお父さま! いつでも、死が私たちの肉の幕屋をこわしたら、私たちはみな、身軽に永遠の天国に入って行けるようにしてくださって、本当に有り難うございます。

聖き、父なる神様! 今日、説教を聞いたすべての聖徒さんたちの中で、ただの一人も、永生の道を失うことがないように導いてください。主であられる神様が備えてくださった天国に、みんなが入って行くように助けてください。

そして、この世で暮らす間、主のために熱心に働いて、益々数多くの良き材料を天国にたくさん積み上げて、美しい家を建てることができるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!