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「絶対肯定の生」
 






■聖書箇所

「ローマ人への手紙 8章28節」
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。




今日、私は皆さんとご一緒に『絶対肯定の生』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

どのような環境にあっても、肯定的で希望に満ちた明日を期待しながら生きて行くことはできないものでしょうか? 世の中があまりにも物騒であり、変化無双なので、この世のことを見ながら暮らすとき、誰彼なくいつも心が不安です。

最近、トルコで、グリースで、台湾で、メキシコで起こった地震は、私たちが拠り頼んで生きている土地(地球)までも、もう信じられないと思うようになりました。私たちはどこから、環境に関係なく「絶対肯定的な生」を営んでいくことができるでしょうか?

今日奉読した聖書の御言葉は、私たちの質問に対してはっきりした答えをくれています。




第一、神を愛する人々

第1番目に、聖書は、神を愛する人が絶対肯定的な生を営んで行くことができる土台を築くと言っています。私たちは何故、神様を愛さなければならないのでしょうか? この世の中には私たちの愛を要求する相手があまりにもたくさんあるのですが、天地と万物を造られた神様も私たちの愛を願っておられるのでしょうか? 私たちが何故、神様を愛さなければならないのでしょうか?

皆さん、子どもたちは父母を愛することが特に骨が折れることではありません。父母が自分を産んで、育ててくれたので、当然なことながら父母に対する愛を持つようになるのです。このように、神様は私たちを造られましたから、造ってくれた我らの神様に対する愛は、これも至極当然なことです。

神様が土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込んで、人を生きものになるようにしてくださいました。アダムの子孫である私たちは、いつも神様の御手によって創造されたことを覚えて、創造された者が創造したお方を畏敬し愛することは、これも当然なことなのです。

また私たちが神様を愛さなければならないことは、神様に背いて罪を犯した私たちを神様は救ってくださったからなのです。アダムとエバ以後のすべての人生たちはみな、個人的であろうが集団的であろうが、神様に反逆し背きました。こんにちも全世界が悪者の手に属しており、神様に背き、神様の聖なる御名を畏敬せず、賛美もせずに生きているのです。

しかし「ヨハネの福音書 3章16節」でご覧になるとおりに、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と記録されています。神様は一方的に私たちを愛してくださったのであり、今も私たちを愛しておられます。私たちが独り子をくださいと願ったことがありません。私たちを救ってくださいと呼ばわったこともありませんが、一方的に神様がその独り子を遣わされて、十字架に釘付けにして身を裂き、血を流すようにまでして私たちの罪をすべて清算なさり、私たちを救ってくださったのです。

皆さん、神様がどんなに私たちを愛しておられるか、私たちは胸の中に刻み込んで、私たちは神様を愛さなければならないのです。

私はこのようなお話しを読んだことがあります。シカゴに住んでいる或るサラリーマンが、ボートが欲しいので、幾らかずつ貯蓄したお金でボートの材料を買い集め、それで時間があるごとに自分の家の庭でボートを組み立てました。そして彼はそのボートをシカゴの湖に浮かべて置きました。いかに美しく素晴らしいボートなのか彼は心に大きく感激しました。

そのボートを堤防に堅固に縛り付けて彼は寝床に入って寝ました。その夜、大きな暴風が襲って来ました。夜通し強い風が吹きまくり、波が高く荒れました。明くる日の朝、ボートを縛り付けておいた堤防に行って見ましたが、ボートがどこに行ったのか見えません。激しい風浪に綱が切れてボートがどこかに流れ去ってしまったのです。彼は悲しくなり、泣き崩れてしまいました。

もしも誰かがボートを拾ったかも知れないと思って、時間がある度に彼はあっちこっちと尋ね回りました。そして或る日、中古のボートを売る店に行って見ました。するとそこに彼のボートが置かれていました。そこの主人に「これは私のボートです…。」と主張しましたが、その主人は全然受け付けてくれません。

それで彼はまた、あらん限りの力を傾注してお金を貯め、それを持って自分が作ってから失ってしまったそのボートを買い取って、家に運んで来ながら彼はこう呟いたと言います。「ボートよ。お前は私が作ったのだから私のボートであり、失ってしまってから私がお金を払って買い戻したのだから、お前は二重に私のものだ。従ってお前(ボート)は私にはとても貴重なのだ。」

私はこの話を読んで、まさに神様が仰せられる御声を聞いたように思いました。神様はなぜ、私たちを愛してくださるのでしょうか? 私たちを造られたので愛してくださり、また私たちを失ってからイエス・キリストの十字架の血で代価を払って贖われたので、私たちは二重に神様の所有になったのです。それで神様は私たちを愛してくださるのです。この神様の愛をいただいているのですから、私たちは当然神様を愛さなければなりません。

皆さん、また神様は私たちのために天の御国を備えてくださったのですから、私たちが神様を愛さなければならないのは当然至極なのです。私たちがこの世を去って、この世の物をすべて失ってしまったとき、そしてあの死の川を渡るとき、神様は私たちの主イエス様を通して天国に迎え入れてくださり、私たちのために永遠の住まい、美しい住まい、至極貴重な住まいを備えて居られるのですから、私たちは神様を愛し、感謝しなければならないのです。

「マタイの福音書 22章37節〜38節」に、『そこで、イエスは彼に言われた。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。』と記録されています。ですから私たちは、神様を熱く愛さなければならないのです。お金とか地位とか権勢とか、またはこの世の快楽よりも神様を愛さなければならないのです。

それでは、果して私は今神様を愛しているか? 一度自問して見なければならないと思います。神様はこのように私を愛しておられるのに、私が果して神様を愛しているか、どうか、自ら質問して見なければならないと思います。皆さんが神様を愛している、と言う証拠がどこにあるでしょうか。

愛は、いつも一緒に居ようと願います。子どもを愛する父母は、いつも子どもと一緒に居たがります。子どもが大きくなって分家して出て行っても、父母の心の中にはいつも子どもがいます。何故でしょうか? 子どもを愛しているからです。愛する親友はいつも忘れることなく思うようになります。

夫婦のあいだでも、熱く愛するときには一日中、頭の中でお互いを思いあうのです。愛はいつも相手と一緒にいたいと願います。手は働いており、心はあれこれと忙しくても、頭の中にはいつも愛する対象を思うようになるのです。ですから神様を愛すると言うのでしたら、世の中でいくら忙しくても頭の中にはいつも神様が居られるようにならなければならないのです。自分が働いているとして神様をうっかり忘れていたり、世の中が面白いとして神様をうっかり忘れていたりしては、それは神様をあつく愛しているとは言えない証拠です。

皆さん、あつく愛する人は、いくら忙しく、いくら面白い時間が持てても、頭の中ではいつも愛する対象を思っているのです。神様を本当に愛している人は、瞬時も神様を忘れるようなことはありません。

私は幼かったとき、母が台所で炊事などしているときには、私も台所に入って行って色々とお手伝いをしました。私の家の台所と奥の間とはかなり離れています。ところが母は突然、「あなたの弟が目を覚ましたらしいわよ。行ってお乳を飲ましてくるから、火の用心をしてね。」「お母さん、弟が泣いている声が聞こえないじゃありませんか?」「いや、そうでないわ。今泣いているの…。」母はかなり遠く離れている台所から弟が目を覚まして泣いているのを聞いて、乳を飲ませようとして駆けつけて行きました。

それはどうしてか? 母の心の中にはいつも、愛する子どもたちに対する思いでいっぱいなので、幼い子どもの泣き声も遠くから聞くことができるのです。

皆さん、私たちが神様を愛するのであれば、私たちの頭の中にはいつも神様が記憶されていなければなりません。何をしているにしても、神様に対する思い、主イエス・キリストに対する思いが私たちの心を占領していてこそ、神様を愛している証拠になるのです。

皆さん、考えて見てください。一日の間、目を覚まして生きている一日の間に、父なる我が神様とイエス様の思いが離れずにいるか、どうか、一度省察してみてください。万が一、神様とイエス様に対する思いが忘れられているとしたら、皆さんは自ら悔い改めて、立ち返らなければなりません。

また愛は、愛する相手に仕えようと願います。皆さんが神様を愛すると言うなら、神様に仕えなければなりません。父母は子どもを愛するので、子どものためにはあれこれ厭わず、骨が折れることも顧みずに苦労します。そうしながらも、その苦労の代価を願いません。愛するが故に仕えるのです。

妻が夫を愛しているのなら、夫のために心を使い、あれこれと苦労し、そしてそれを自慢したりしません。また夫も同様です。妻を愛しているのなら、妻のために何かと苦労しながら、それを自慢しようとしません。そのような苦労を楽しみとしているのです。

私たちが神様を愛するのであったら、神様のために愛の労苦を喜びとします。私は教会に来たら、私たちの「男・女宣教会」の会員たちが或いは交通整理をし、または外で案内の奉仕をし、一日中立っているので足がむくれるまで神様に仕えているのを見ます。そうしながらも、誰もそれを自慢したりしません。神様に対する愛の苦労をしているのです。これは神様を愛しているからできるのです。神様を愛していない人にはできないことです。

私たちが神様を愛しているとすれば、神様に仕えることを怠ってはいけません。どんな誘惑があろうとも、その誘惑を振り切って主日を聖く守り、収入の十分の一を捧げて神様に感謝を表し、そして奉仕の労苦を否とせずに仕えなければなりません。

「マラキ書 3章10節〜11節」に、『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・』と記録されています。

今回、台風が襲来して農作物が滅茶苦茶になりました。皆さん、いくら1年間苦労しながら農作に励んでも、台風が襲来して田畑の穀物や野菜などをみな倒してしまったら、せっかく苦労したことがすべてむなしくなってしまいます。人がいくら骨を折り苦労しても、神様が守ってくださらなければならないのです。

神様が気候も守ってくださり、病虫害からも守ってくださってこそ、それなりの収穫を得ることができるのです。ですから私たちが、神様に十分の一も捧げ、主日も聖く守り、神様に仕える生活をして、神様を愛する証拠を見せなければなりません。そうしたら神様は言われます。「わたしは、わたしを愛する者を愛する。」と。

ですから、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある…。」と言われましたから、私たちが神様を愛するのなら、時間を捧げ、物質を捧げ、献身し、労苦しながら仕えてこそ神様を愛することになるのです。

また愛は、愛する相手をいつも喜び、ほめたたえ、誇るようになります。皆さん、愛する人を会うとき、いかに嬉しいですか? 今回のお盆のときに子どもたちが田舎におられる父母を会いに行きました。その人たちの父母がどんなに喜んだことでしょうか。なぜ? 愛しているからです。親友たちも愛する親友に会ったら、相手に会われたことによってとても喜びます。何故でしょうか? 愛しているからです。

神様にお会いすることが心に喜びを溢れさせるようにならなければなりません。私たちが教会に出席することが、嬉しくて心に興奮を覚えるようにならなければなりません。なぜでしょうか? 愛する神様にお会いするために出席するのだからです。礼拝を捧げるために行くときに、喜びが溢れ出るようにならなければなりません。なぜ? 神様に会いに行くのだからです。

嫌々ながらするとか、義務的にするのであったら、そこには愛がこもっていません。私たちは愛する対象を喜び、ほめたたえ、誇るようになるのです。「詩篇 100篇 3節〜4節」に、『知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。』と記録されています。

ですから皆さん、私たちはいつも神様を愛する人とならなければならないのです。神様から愛され、神様を愛する人となってこそ、神様がすべてのことに私たちを強めてくださることによって肯定的に生きていくことができるのです。




第二、即ち、神のご計画に従って召された人々

第2番目に、聖書は「すなわち、神のご計画に従って召された人々」が神様とともにいるようになる、と記録しています。こういう人々にはいつも神様が肯定的に生きるように導いてくださいます。皆さん、父母の心に従順に従う子どもは父母から愛され、また祝福されます。旦那さんの心に従順な奥さんは、旦那さんから愛されることは当然の理です。私たちが神様の御心に従って生きてこそ、神様が私たちを喜んでくださるのです。神様に逆らい、神様に反逆して、神様と相撲をとるようになったら、神様はその人を愛することができません。

「神のご計画に従って召される」と言うことはどう言うことでしょうか? 神様の御心を知り、その御心の通りに実践することです。

神様の一般的な御心は「テサロニケ人への手紙 第一 5章16節〜18節」に理解しやすく記録されています。『 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」一般的な神様の御心は、私たちがすべて生活の中で実践することができる事柄です。私たちが喜べないことにもいつも喜び、いつも大小様々な事柄を神様に祈り、良いことにも、悪いことにも、すべてのことに対して感謝しなさいと言っているのです。

「テジョン(大田)」の純福音教会の担任牧師である「キム・ソクサン」先生が、礼拝を導いてから階段を下りてくるときに倒れて、足首が折れました。それで病院に行って足首にギプスをしました。ギプスをしてから講壇に立って説教をしたところ、不便でもあり、恥ずかしくもありました。足が痛くてそのまま立っては説教をすることができないので、椅子を置いて、そこに坐って説教をしました。

それを信徒さんたちが見て、「主のしもべが何故、足首が折れて、あのように椅子に坐って説教をするのだろうか? みっともない。」と言うようなので恥ずかしくてたまりません。それで「キム・ソクサン」先生は心の中で呟きました。「このような羽目に陥ってしまって、何をどう感謝せよ、と言うのですか。すべてのことについて、感謝せよ、と言われましたが、今私が足首が折れたので椅子に坐って説教をしております。これも感謝すべきですか…?」

そのとき、主の微細な御声が聞こえたと言います。「感謝しなさい。首が折れなかったことだけでも、いかに感謝すべきか…。」それで彼は悟ったと言いました。「そうです!神様!階段で倒れて首でも折れたら、死んだか、或いは一生涯障害者で過ごさなければならなかったでしょうに…、足首だけが折れたことで、あまりにも感謝です。有り難うございます。」

私たちがしきりに上だけを見上げるのだから感謝すべきことがないのです。下を見下ろしながら暮らしたら、感謝すべき事柄があまりにもたくさんあるのです。私たちより貧乏で、疲れきった生活を営んでいる人たちがどんなに多いか知れません。我が神様は、どのような人たちを喜ばれるのでしょうか? いつも心に喜びを持って生きて行く人を喜ばれるのです。

皆さん、ほかのことはみな除外して、イエス様が私たちの救い主となられたことを思うとき、喜ばずにはおられません。私たちがこの滅亡されるしかない世の中で、救いを受けて、永遠の天の御国に行くことができるようになったのですから、これだけを思っても喜ばないわけにはいきません。

そして、大小何事でも神様に祈りなさいと言うことは、神様が私たちの祈りを聞いて、助けて上げたいと願うからなのです。

すべてのことについて、感謝しなさい、と言うことは、私たちが思うときには、何でもないことのように思われますが、私たちが後になって、遠い目で眺めたときには、それが「良かった」と思われるときがあまりにも多いのです。神様は永遠を見ながら計画されるお方ですので、現在甘いものだけを下さるようなことはなさいません。口に苦いものを与えてくださることによって、将来には良くなるようにしてくださるために、色々と苦痛と苦難も与えてくださるのです。

ですから、口に甘いものだけをもって感謝せずに、口に苦いものをもっても感謝しなければならないのです。それは神様が私たちを愛しておられるのですから、信じ、そして感謝することができるのです。

神様の特別な御心を知るがためには、皆さんが神様の御言葉を熱心に勉強しなければなりません。「詩篇 119篇105節〜107節」に、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。』と記録されています。

神様の御言葉が私たちの足もとのともしびとなり、私たちの道の光となって、暗闇を明るく照らしてくれるのですから、私たちが神様の御心を知ろうとするなら常に定期的に神様の御言葉を勉強しなければならないのです。神様の御言葉を勉強していたら、私たちがどうすべきか知らないときに、聖霊が神様の御言葉を私たちの心の中に思い起こすようにしてくれるのです。

私たちが心の中の倉庫に神様の御言葉を満たしておいてこそ、聖霊が新約と旧約の中から神様の御言葉を引き出して思い起こすようにしてくれるのです。ですから神様の特別な御心を知るためには、神様の御言葉をいつも熱心に読み、聞き、勉強をしなければなりません。

また私たちが祈っている中で、悟りを通して神様の御心を知ることができるようになるのです。私たちが「これか?」「あれか?」知らないので主に切に祈れば、忽然と心の中に悟りが近づいて来るのです。「詩篇 143篇 3節〜4節」に記録されているように、『あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。主よ。あなたの御名のゆえに、私を生かし、あなたの義によって、私のたましいを苦しみから連れ出してください。』と祈れば、神の聖霊が私たちの心の中に忽然と悟るようにしてくれるのです。明るい真昼のように、燦然と善悪を分別することができるようにしてくれるのです。

また、神様は夢や幻を通して私たちに神様の御心を見せてくださるときがありますが、このような例は極くまれなことです。一般的に平凡な人たちに与えてくださるものではありません。「ヨエル書 2章28節」に、『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。』と記録されていますが、特別な場合には神様が夢と幻を通して、私たちに神様の御心を見せてくださる場合もあります。

しかし大多数の人たちには「ピリピ人への手紙 2章13節」に記録されているように、心の中に志を立てさせ、事を行なうようにしてくださるのです。皆さん、一緒に奉読しましょう。『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』

神様の願われるこを、私たちの志として立たせてくださるのです。私たちが突然「こうしたい!」と思うようになります。誰々の家を訪問したい! 思いがつのります。誰に会いたい! 熱い思いがつのります。これをしたい! 祈るとき、しきりにその思いがつのります。このように、思いが熱くつのることを通して神様はご自分の御心を見せてくださるときが数多くあります。

皆さんがいくら「行こう」としても、神様がその道をふさぎ、皆さんが考えても見なかった道を開いてくださいます。皆さんがまた、思いもしなかった人に会って、その人の導きを受けるようにもなります。このように、私たちイエス様を信じる人たちは環境に深い関心を傾けなければなりません。神様は私たちに環境を通して導かれるときが多いのです。

平凡な信徒たちにも、祈るとき、心の志を通してとか、周囲環境の変化を通して、その人たちに神様が悟りを与えられて、「この方向に行きなさい」と神様の御心を見せてくださるのです。

それだけではありません。私たちは神様の御心を知ろうとしていつも努力しなければなりません。「エペソ人への手紙 5章15節〜17節」に、『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』と記録されています。

主の御心が何であるか、理解するために平素私たちはいつも考え、努力しなければなりません。こうして、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々である私たちが、神様の御心を知り、その御心に従って暮らすようになれば、その人たちには「すべてのことを働かせて益としてくださる」と言われたのです。私たちの人生に近づいて来る「良い事」は問題にはなりません。「良い事」はいつも良いのです。しかし、私たちに襲って来る「悪い事」までもが「すべてを働かせて益としてくださる」と言うことを、神様が言ってくださったのです。

「悪い事」は何でしょうか。病に罹ること、職業を失うこと、事業に失敗すること、昇進から漏れること、進学に失敗すること、財物の損害をこうむること…などです。このような「悪い事」があるときに、それによって気落ちしてはいけません。

私が「西大門教会」で牧会しているとき、我が国の著名な文学者のお嬢さんが結婚約束をしたのですが、それが破婚になってしまいました。あまりにも挫折し、絶望して、彼女は私の前に来て声を出して泣きながら「牧師先生、こんなことってありえるのですか。婚約をしておいてから、一方的にそれを破る法がまたとどこにありましょう…。」

それで私が彼女に言いました。「姉妹さん、姉妹さんは平素、神様を愛し、主の御心に従って暮らそうとして非常に努力しながら生きて参ったではありませんか。目の前のことにこだわってそんなに悲しんではいけません。この男性と結婚して、後日、大きな不幸に襲われることがないとは誰も断言することはできません。神様が事前に防止しようとして、この男性との婚約が破れるようになさったと思わなければなりません。神様はあなたに、すべてのことを働かせて益としてくださるお方です。今回の破婚が、後日、素晴らしい益となるのです。ですから気落ちせず、悲しまないでください…。」そして祈ってあげました。

彼女はその後、立派な青年と会いました。そして結婚しましたが、前の男性と比べて10倍も立派な男性でありました。有名な大学を卒業し、優しく、信仰もあつい人でありました。結婚してからは、息子と娘を生み、不足がない豊かな生活を営んでおります。神様がすべてのことを働かせて益としてくださったのです。

私たちは、周囲の或る人たちが気の毒であると嘆息してはなりません。イエス様を信じない人が間違っているのです。イエス様を信じている人たちは、神様がその人たちの人生を手に握って摂理しておられます。神様を愛する人々、すなわち、神様のご計画に従って召された人々には、神様がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。

「申命記 4章30節〜31節」に、『あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。』と記録されています。

私たちが患難に会いますけれども、私たちが神様に拠り頼んで暮らせば、主がいつも、最後には益となるようにしてくださるのです。すべてを働かせて益としてくださる摂理を私たちはいつも信じなければならないのです。神様を愛し、神様の御心に従って生きようと努力する人は、目を上げて遠くを見渡し、希望と肯定的な考えをもって暮らさなければなりません。現実だけを見て嘆いてはならないのです。

「伝道者の書 7章13節〜14節」に、『神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。』と記録されています。ですから、順境の日には喜び、逆境の日には反省しながら、すべてのことを働かせて益としてくださる神様を慕い、却って喜び、祈り、感謝するようにならなければならないのです。

神様は、私たちの人生を刺繍をするようになさるのです。皆さん、手で刺繍をしますが、その裏を見てください。赤い糸、青い糸、黄色い糸が絡み交じり合ってみっともないです。しかし刺繍を終えて表を見ますと、そこには美しい花が咲いており、水が流れ、鳥はさえずり、蝶が飛び交う、美しい絵になっています。

神様が私たちのために摂理なさるとき、黄色い糸、青い糸、黒い糸、白い糸が絡み合って行き来し、良いこと、悪いこと、苦しいこと、悲しいことが絡み合うようで、一体何故、このようなことが起こるのだろうか、と嘆くことがあっても、歳月が過ぎて顧みたら、こんなに素晴らしいことになるとは知らなかった、と感謝するようになります。そのときになって、神様がすべてを働かせて益としてくださったことを悟るようになるのです。

皆さん、ヨセフは兄さんたちから奴隷として売り飛ばされてから10年の間苦しい生活をしました。またポティファルの妻から濡れ衣を着せられて監獄に閉じ込められ、そこで2年間苦痛の目に会いました。すべてが絶望でありました。しかし彼が気落ちせずに神様に拠り頼んで暮らすや、後に彼はエジプトの国務総理に抜擢されて、当時の全中東を治めることができるようになりました。

ヤコブは息子たちと全家族を連れてエジプトに下って行き、ヤコブが死んだ後、兄さんたちが恐れおののきながらヨセフのもとに来て、彼の前にひれ伏して言いました。「私たちはあなたの奴隷です。」ヨセフは彼らに言いました。「恐れることはありません。どうして私が神の代わりでしょうか。あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうしてヨセフは彼らを慰め、優しく語りかけました。

これを通して、私たちはヨセフが悟った真理を知らなければなりません。「あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」私たちに害を及ぼそうとして近づいて来るすべてのことまでも、神様は却って益となるように変えてくださる、と言うことを知らなければならないのです。

神様が私たちと共に居てくださるのですから、いくら挫折と絶望の夜が暗くても明るい夜明けを見渡すことができるようにならなければならないのです。神様が燦爛たる希望で満たされるようにしてくださるからです。神様がなさるみわざは、いつも初めよりは結末が良いのです。私たちが思うときには悪く始まったことでも、後には良い方向に結実するようになるからです。

ですから、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのですから、私たちはどのような環境の中でも「絶対肯定」の知識を持たなければなりません。「絶対絶望」の中でも、「絶対肯定」を持つことができるのは、神様が私たちと共に居られるからなのです。

皆さん、一緒に暗誦しましょう。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

私たちが、このような知識を知ったら、私たちは確かな信仰をもって「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と言う燦爛たる夢を見ながら、現実の苦痛によって否定的になってはいけないのです。私たちはいつも喜び、いつも祈り、いつも感謝しながら、どんなことがあっても肯定的な心の姿勢を崩さずに、「見てみよ。後には良くなる。」「私は現実を見つめて落胆するようなことはしない。」「目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、気落ちしない。神様が私の前に燦爛たる太陽が昇るようにしてくださるからだ…。」このように信じて生きて行く皆さんとなりますよう、主の御名によって祈ります。




お祈り

愛であられる、我が父なる天のお父さま! 私たちにいくら暗い夜が近づいて来るとしても、神様は私たちに朝が来るようにしてくださいます。私たちが今は嘆きながら泣くとしても、涙に濡れた目で希望を見つめ、絶対的・肯定的な心の姿勢を保つことができるように助けてください。明日は今日より、来月は今月より、来年は今年より、永遠なる未来はこんにちより良くなるようにしてくださる神様であられるからです。

全知全能であられる、我が神様! イエス・キリストの内にあって我が父なる神様に仕え、感謝し、賛美しながら、信仰によって生きて行くように助けてください。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神様が私たちを守ってくだされば、だれが私たちに敵対することができるでしょうか。

我が父なる神様! イエス様を信じ、お父さまに仕えるようにしてくださった神様! 感謝また感謝しながらイエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!