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「不幸をつくる人」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 7章12節」
7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。




今日、私は皆さんとご一緒に『不幸をつくる人』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

人は、すべてが皆、全く同じく生まれることはありません。物質的に環境が豊かなので苦しむことなく、すべての恵みをみな享受しながら幸福に育つ人がいるかと思えば、生まれるときから貧しくて襤褸をまとい、あらゆる腹の飢えと苦しみに会いながら、涙で暮らす人もおります。

しかし、そのような生まれが、完全にその人の将来を決定付けることはありません。こんにち、世界を変化させた偉大な人物たちの中には、不幸な環境の中で育った人たちがあまりにも多いです。

アメリカの第16代大統領アブラハム・リンカーンのような人は、丸太小屋で生まれました。雨が漏れる家で育ち、正常的な教育も受けられず、彼の母親により聖書を読むことと、書くことを教わりました。しかし彼は独学で弁護士になり、あとにはアメリカの第16代大統領になって南北を統一する偉大な人物になったのです。

エジソンのような人も学校を中途で止め、そしてつんぼ(聾者)になりましたが、世界的な発明の王になりました。また、ヘレン・ケラーのような人は、2歳のときに熱病に罹って、めくらになり、聾唖者となりましたが、骨を刻むがごとき努力の末に神様のお恵みにあずかって、世界の歴史にその名が残る偉大な女性指導者となりました。

このように皆さん、不幸は必ずしもその人の生まれが不幸であったために不幸になるのではありません。人間の幸福も同じことです。環境が裕福であるとして必ず幸福であるのではないのです。そのような人たちの中に心の不幸な人がもっと多く、自殺する人も少なくありません。環境が貧しくても、とても幸福に、そして喜びの中で暮らす人たちをいくらでも数多く見ることができます。

幸福と不幸は、その人の心の持ち方によるのです。この事実を、私たちは心の中に深く悟り、知らなければなりません。ところが数多くの人たちが、自ら「不幸をつくる人」として生きております。

ある田舎に、賢明な老人が居られました。その村落では、問題にぶっつかった人はすべてがその老人の所に行って、癒しの言葉を聞き、問題を解決してもらいました。いたずら好きの青年たちがある日、この老人を試して見ようとして、雀を一匹獲り、それを手にして老人の所に行って、訊きました。「私たちの手の中にある、この雀が死んでいるでしょうか…?生きているでしょうか…?」

青年たちは、老人が「死んでいる。」と答えたら、雀を手から離してばたばたと飛んで行くようにして、「ご覧なさい。生きているではありませんか。」と言い、「生きている。」と答えたら、手を強くぎゅっと握り締めて雀を殺してから、「ご覧なさい。死んでいるではありませんか。」と言うつもりでありました。

老人はじっと青年たちを見回してから、「よし、答えて上げよう。死ぬ、生きるは、お前たちの手によるね!」と、答えたと言います。私たちの一生の幸福と不幸も、私たちの手によるのです。私たちの心の態度によるのです。

それでは、どのような人が「不幸をつくる人」になるのでしょうか?




第一、律法主義で暮らす人

第1番目に、律法主義で暮らす人は、自分も不幸にし他人も不幸にする人です。自分を律法と正義の使徒だと思って、いつも他人の欠点を暴き出し、審く、このような人を主は絶対に祝福してくださいません。

「ルカの福音書 18章 9節〜14節」に、『 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』と記録されています。

ここで、神様が言われる御言葉をご覧ください。律法主義者になって自分を正義の使徒だと思い、いつも他人の欠点をほじくり出し、他人を判断する人を、主は正義の人だとは言われませんでした。主は却って、悔い改め、告白し、主に立ち返る人を義の人だと認められました。

律法主義者は会う人ごとに、その人の胸に傷を負わせます。赦しと愛の温かい気よりは、いつも棘があるバラのように手を当てたら刺されるのです。それで、ひとつの家庭生活にあっても、あまり正義派過ぎる夫の傍では奥さんが居たたまれなくなって離れて行きます。物事ごとに、奥さんを律法の鞭で打ち、律法の物差しで計っては批評しますので、一緒に暮らしていくことができないのです。また、あまりにも正義派の奥さんの前では旦那さんが居たたまれません。なぜ?いつも夫の欠点だけを指摘し、判断するからです。それでそのような奥さんの前からは夫が離れて行くのです。

「ローマ人への手紙 2章 1節」に、『ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。』と記録されています。

私が40年間を牧会しながら、聖徒さんたちを見ますと、聖徒さんの中で偽善者である人がもっとも甚だしく他人を判断する、と言う事実を知るようになりました。義の道に正しく暮らしている人はかえって他人の咎を赦し、抱擁します。ところが誰が見ても偽善者である人は、同僚を甚だしく批評し、判断し、牧会者も批評するのを見ました。心理学者たちは、これを心理的な反射作用と言います。嘘つきが嘘つきをもっとも批評し、泥棒が泥棒を恐ろしいほどに非難するのです。

過ぎ去ったことではありますが、アメリカの有名な或る牧師が、自分自らが不義な生活を営んでおりました。他人の奥さんと姦淫していたのですが、彼がTVに出演して、淫乱で姦淫している人を恐ろしく批評し、非難しました。たまたま私もTVの前でそれを視聴しましたが、とても寒気立つほどでありました。

ところが、彼が姦淫の現場で捕らわれて破滅しました。皆さん、偽善者が心理的反射作用で、自分の偽善を保護するために他人を甚だしく批評し、非難し、詰問するのです。これがまさに律法主義者です。それで、律法主義者たちは誰彼の区別なく、皆が偽善者であると言うことを知らなければなりません。このような人は自分も不幸であり、他人も不幸にするのです。

ですから、私たちは律法主義者にならないように注意しなければなりません。ガルバリの十字架の下で、イエス様が赦してくださり、愛してくださった、そのあたたかい心遣いを思い出しながら暮らさなければならないのです。




第二、自分だけが正しいと思う人

自分だけが正しいと思う人は、自分も不幸であり、他人も不幸にします。自分の理論と考えだけが正当だとして、一方的に他人を罵倒し、他人の主張を無視する人が少なくありません。私が信仰相談に応じながら見ますと、夫婦葛藤のもっとも重要な要素の一つが、自分が正しいとして自分の意見だけを主張する旦那さんや、奥さんの所為でありました。

自分が決定したことが全部正しく、それが最高であるとして、相手に無条件に従えと強要するのです。それで、そんなことに押し付けられた奥さんが黙っていることができません。奥さんは奥さんなりに、自分が完全に正しいと主張し、旦那さんのすることは全部間違っているとして、旦那さんが自分の言うことに従わなければならない、と言い張ります。このように、一方的に自分だけが正しいと主張する、意地っ張りで融通のきかない人たちが意外と多いのです。

このような人たちとは一緒に暮らすことができません。なぜかと言えば、対話が成立せず、妥協の余地がないからです。「ルカの福音書 16章15節」に、『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます…。」』と記録されています。人の前で自己主張だけをし、自分を高めようと努める人は、神様が憎むと言われました。

私たちすべての人たちは、完全ではありませんから、意地っ張りで融通のきかない人になってはいけません。そういう人は他人を嘲笑い、無視する人です。自分だけが正しく、自分が最高の人間であると思うのです。

聖書「箴言 16章18節〜19節」に、『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる。』と記録されています。高慢はとても危険です。意地っ張りの人は高慢な人です。自分だけが正しいと思い、他の人はみな悪いと思う、このような人は、自らも不幸であり、他人をも不幸にします。このような人は、他人の自尊心を踏み躙ってしまうのです。

人間が最後まで守るのが自尊心です。人は自尊心を捨ててしまったら、殺人・強盗になれもし、姦淫も盗みも何でもすることができます。自らを尊敬する自尊心が、人間の最後の堡塁なのです。それで、私たちの主イエス様もこの自尊心は絶対に傷つけることがありませんでした。主は、姦淫の場で捕えられて来た女も、その自尊心を守って上げました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』

主は、夫を五人も変えたスカルの井戸での女の自尊心も踏み躙りはしませんでした。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』「私には夫がありません。」『もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です…。』自尊心を傷つけませんでした。強情で意地っ張りの人は、他人の自尊心を踏み躙ってしまいます。

いくらか前に、ひとりの男性が他人より遅く学校を卒業して、会社に就職してから、凄く我が強い女性と結婚しました。その奥さんがいつも旦那さんに向かって言いました。「あんたが晩く大学に入ってから卒業したんで実力がないから、会社でも認められず、あなたと一緒になった私は恥ずかしいわよ。同窓生の彼氏たちを見たらみんな出世しているのに…。同窓会の席に顔を出すのも嫌になっちゃうわ…。」夫が妻からいつもこのように踏み躙られるので、その夫の自尊心が傷つきました。

その次にはまた奥さんが、「こんな小さいアパートでは息苦しくて堪らないわ。少しもっと大きなアパートに移らなくちゃ…。あんたが課長にでもなれたら、月給がそれだけ多くなって少しは大きなアパートに移れるのに。何や、こんな小さなアパートで…。」と口癖のように言い出しました。そのようなときに、課長昇進試験の日が近づいて来ました。それで旦那さんは、課長に昇進したくて夜昼なく受験準備に没頭しました。

その奥さんは受験準備に没頭している旦那さんに、慰めや激励はせずに、「あんたに実力があるか、どうか、今回証明することができるわね。今度の課長昇進試験に合格できなかったら、あんたは敗北者よ。男の資格もないわ…。」と、朝夕責め立てました。旦那さんは黙々と受験準備に励みました。そして受験の日が到来しました。その日、旦那さんは受験室に出席して、試験紙を受け取ってから何と書いたでしょうか。「これで、僕の人生は終わった。」これが彼の答案でありました。

そして、受験室から出て来るや遠くに行って、その旦那さんは自殺してしまいました。奥さんが絶え間なく旦那さんの自尊心を踏み躙ってしまうので、彼はそのような状況の中では生きていくことができなかったのです。このように悲惨な人がいるかと思えば、その反対の状況も少なくありません。

夫が落胆し、挫折して、絶望であるとき、奥さんが継続して「私はあなたを信頼するわ!」「あなたは何でもすることができるのよ!」「私たちは、これだけでも満足じゃありませんか…!」「勇気を出しなさいよ!」「も少し、頑張ってね!」それで、夫を挫折と絶望の泥沼から助け出してくれた奥さんがどんなに多いかわかりません。

自分だけが正しいと思う人は、自分も不幸にし、他人も不幸にするのです。




第三、いつも他人と比較して競争する人

第3番目に、いつも他人と比較して競争する人は、自分も不幸にし、他人も不幸にします。なぜかと言えば、他人より優れているときは優越感をもって相手を見下ろします。私には次のような記憶があります。或る国に居るひとりのクリスチャンの事です。それで私はその国にはなかなか行きたくありません。招かれても、私はその国に行きたくがないのです。

いつか、その国で集会が終わってから、関係者たちが集まって会食をしました。ところが、某教会の執事であるその国の人が、私に向かって、「大韓民国…? 現代自動車があり、浦項製鉄があるとして笑わせるなよ。我らには、そんな現代自動車とか浦項製鉄とかがなくても、韓国人よりGNPがもっと高いのよ。韓国人よりもっと立派な生活をしているんだよ。韓国の人間たち、何でぃ…。」と怒鳴るように言うのでありました。

その場で、立ち上がって抗議したかったのですが、牧師である立場から大声を出す訳にもいかず、黙って座っていました。私がいつ、韓国に関して自慢したでしょうか? 自分が勝手にひとりで立ち上がって、多くの人たちの前で、韓国人である私を侮蔑したのです。

ちょっと間をおいてから、私は彼に向かって静かに、「そうです。韓国人は貴方の国の人より物質的には恵まれていないかも知れません。しかし霊的には裕福ですし、豊饒です。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいでしょうか。私たちは、今よりはるかに貧しくても、私たちの国民が数限りなくイエス様を信じ、主のもとに出て来る、これが私たちの宝です…。」と答えて上げました。

誰も訊きもしなかったのに、自分の国と韓国とを比較して韓国を軽視し、私を侮蔑するので、その次からは招請状を送って来ても、私はその国には行きません。その人がしきりに思い出されるので、行きたい気がしないのです。いかに大きな衝撃でしょうか。他人も不幸にし、自分も不幸にしたのです。

他人と比較して競争することは、他人より優れないときには劣等意識と挫折感でいつも煩悩するようになり、競争相手を憎みます。競争相手を悪く言い、謀略するようになります。これは大きな不幸です。皆さん、聖書には『神が各々に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』と言われました。

「ローマ人への手紙 12章 3節」に、『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』と記録されているのです。

神様は、人おのおのに生まれるときから量りに応じて信仰を与えてくださいました。この信仰の量りに応じて暮らしなさい、と言われましたので、私たちは他人と競争せずに、神様の御前で忠実に暮らしたら良いのです。神様は、物質を少なく与えた人に信仰を多く与えてくださり、また、信仰を多く与えて上げた人に物質を少しだけ与えてくださることもあります。私たちは、神様が自分に与えてくださった信仰の量りに応じて満足しながら暮らして行かなければなりません。

翁草がバラの花になれなかったとして不平をこぼしても、翁草がバラの花になれるのでもなく、それは不幸なのです。神様はバラの花も造られ、槿の花も造られ、また共同墓地に咲く花も造られるのです。自分の世に処する身持ちは、神様が与えてくださったものです。神様の造化無窮なる御力がそこにあるのです。ですから、人はそれに感謝し、満足しながら暮らさなければならないのです。

いつも自分を他人と比較しながら暮らしたら、神様に対する反逆になってしまうのです。神様がお喜びの中でそのように造られたのですから、それで感謝しなければなりません。そうして、神様に栄光を帰さなければならないのです。




第四、おおよう(大様)でない人

おおようでない人は、自分も不幸であり、他人も不幸にします。小さいことに神経を苛立たせながら暮らす人が多いです。このような人は小言がしょっちゅう口から絶えません。家に帰ってきたら、夫が妻にあらゆる小言をよく言います。「靴棚に、なぜ靴をあのように置いたか?」「なぜ、家の掃除がこうなのか?」「台所の布巾は、なぜきれいに洗って置かなかったか?」「生ごみを、なぜ捨てなかったか…?」男が家に帰って来たら、おうように笑顔で家族たちを抱擁して上げながら暮らさなければなりません。一々小言を言いながら、すべてに干渉し、神経を苛立たせながら生活をする人とは、皆さん、一緒に暮らすことができません。

このような人は、会社に出勤してからも拡大鏡を持って回ります。他人の小さなこともすべてほじくり出しては、話題に上らせ、非難します。教会にも「拡大鏡執事」「拡大鏡長老」が少なくありません。「拡大鏡執事」「拡大鏡長老」になって、しきりに他人を非難し、批評し、いじめながら暮らします。このような人は自分も不幸であり、他人も不幸にし、甚だしくは神様までも不幸にするのです。

皆さん、人間生活というものはおおよう(大様)な心で、神様に拠り頼みながら暮らさなければなりません。そのように小言をしょっちゅう言うとして事が成るのではないのです。「箴言 16章 1節〜2節」に、『人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。』と記録されています。

自分のすることがことごとく正しいように思えても、そのたましいの深さを神様は見られますので、小さいことに神経を苛立たせ、拡大鏡を持って暮らさずに、おおような心で暮らさなければなりません。このような人たちがすべてのことに干渉したら、妻も夫も隣人もみな苦しくなり、みんなが不幸になるのです。「テモテへの手紙 第一 5章22節」に、『また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。』と記録されています。

おおようでない人は、他人の失策を見過ごすことができません。「コロサイ人への手紙 3章12節〜13節」に、『それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。』と記録されています。

神様はいくらでも赦してくださるお方です。神様が私たちを赦してくださいました。私たちは赦してもらえなかった人のように行動してはいけません。神様が私たちを赦してくださったのですから、私たちは赦して上げるべき債務を背負っている人たちです。他人を赦して上げ、おおように愛を持って抱擁しながら暮らしてこそ、私たちは隣人たちと共に生きて行くことができるのです。




第五、他人を信じることができない人

第5番目に、自分も他人も不幸にする人は、他人を信じることができない人です。夫婦がお互いに信じ合うことができなければ、その家庭生活は不幸です。最近、ある男性の聖徒さんが私の所に信仰相談に来られました。その人の奥さんが夫を信じることができず、いつも根掘り葉掘り訊ねると言うのでありました。会社から帰宅したら、「あんた、何時にどこへ居たの?」「誰と食事したの?」「どこへ行ってからのお帰りなの?」「なぜ、こんなに遅くなったの…?」一日二日のことでもなく、奥さんがいつも根掘り葉掘り聞きただすので「牧師先生、私は到底この人とは暮らすことができません。どうしましょうか?」

それで私が、「一旦、あなたは結婚したのですから、運命的に一緒に暮らさなければなりません。ですから、熱心に奥さんを連れて教会や祈祷院に行って、変化させる道しかありません…。」と答えて上げました。

また、ある婦人は、旦那さんが1日に何回も家に電話をかけて来ると言うのでありました。「電話したんだが、なぜ受け取らなかったんや?」「お手洗いに行っていたんです。」「今、何してる?」「応接間を掃除しています。」「どこへ行って来たんや?」「野菜買いに行って来ました…。」これが1日や2日のことでなく、毎日継続して奥さんを監察するというのです。それでその奥さんは「もう、こりごりです。とても一緒には暮らして行けません…。」と言うことです。

お友だちが来ても、一緒に外出することができません。何か買い物にも出かけられません。どこかへ行って来たら「ど奴とお茶を飲んで来た?」「お前、密会して来たんだろう?」と責めるので、その奥さんは、もう本当に一緒には暮らせない、と言うのでありました。

こんにち、いくら不信の社会であるとは言っても、夫婦は互いに信じ合わなければなりません。初めから、騙される覚悟をして信じなければなりません。そうしてこそ、心が安らかになります。そうせずにしきりに疑えば、却って「そうか、そんなに私を信じてくれないなら、よし、お前が信じてくれない通りに生きて上げる。」と開き直るようになります。自分が間違ったことをしても信じてくれず、良くして上げても信じてくれないから、反発するようになるのです。お互いに深く信頼し合ったら、その信頼によって心を支配するようになるのです。

人を信頼しない人は、人に仕事を任せることができません。私はたびたび、教会の成長に関して講義していますが、大概、小規模の教会の牧師たちは、その教会の長老や執事さんたちが信じられないとして、教会の行政全般を手に握っています。説教も自分がし、財政も自分が受け持ってしており、教会の一般的事務も自分が手ずからやってのけます。それで、朝から晩まで目を真っ赤にして「忙しくて、死ぬほどつらい。」とこぼしながら苦労しますが、その教会はリバイバルしません。なぜ?人を信頼しないからです。小さい教会の牧師先生たちは聖徒さんたちを信頼しませんので、仕事を分けて任せようとしません。

会社も同様です。事業をするのであったら部下の職員たちを信頼しなければなりません。仕事を任せて信じて上げなければなりません。しくじりを仕出かしたり、間違いを起こしたりするまでは信じなければならないのです。それを一々干渉し、疑い、刑事のようにつきまとっては誰も働こうとしません。なぜ?信じてくれないから自信を失ってしまい、結局は働くことができなくなるのです。ですから、他人に仕事を任せることができなかったら、他人は誰ひとり何の仕事もすることができません。




第六、隣人を愛することができない人

第6番目に、自分も不幸であり、他人も不幸にする人は、隣人を愛することができない人です。自分・個人以外には、隣人を考えない人です。

私が「父母を敬いなさい。父母を敬わなかったら、この世で祝福されもせず、からだが病気に罹ることもあります。」と説教していましたが、ある青年が病気に罹って祈ってもらうために私のところへ来ました。彼は「牧師さま、私は、私のお父さんを愛することができません。どうした良いでしょうか?」「何故ですか?」「私のお父さんは、自分だけしたい放題に暮らしております。私の母も子どもである私たちも、一切考えてくれません。美味しいものも自分ひとりでみな食べてしまいます。着物も自分は新しいものを買って着ますが、お母さんや私たちにはそんなのを買って着せようとしません。このようなお父さんを、私は敬うこともできず、愛することもできません。どうしたら良いでしょうか…?」と言うのでありました。

本当に苦しい悩みでありました。その青年は、自分のお父さんを心から愛しようと努力してみたが、あまりにも過去にお父さんが自分一方的に生活して来たために、その苦々しい経験が故にお父さんを愛することがとてもできない、と告白しました。

私たちはこの世を生きながら、利用価値がある隣人としてだけしか、隣人を考えない、そのような思考方式で暮らしてはいけません。皆さん、純粋な心で隣人を愛さなければならないのです。「あの人は、私が友だちになって上げれたら、いつも食事をおごってくれるんだ。」「あの人と親しく交際したら、ゴルフに行ったときにも私の分まで支払ってくれるから、親しく付き合おう…。」「どこへ行っても、あの人は経費をすべて負担してくれるから、あの人とは仲良くしよう…。」

すべての隣人を利用価値を基準に付き合うとしたら、その人は絶対に純粋な親友を持つことができず、また親友として長い間残ってくれる人もいません。1〜2度利用されたら、その友人は離れ去ってしまうのです。ですから私たちは、お隣を純粋な心で愛し、隣人を助けて上げる喜びを得ながら生きて行かなければなりません。

ある姉妹さんが、立派な学校を卒業もし、教会にも熱心に出席して熱烈に祈りも捧げ、主のお恵みにも豊かにあずかりましたが、いつも心に満足を感ずることができませんでした。何か知らないがいつも不足を感じていました。それで今年の夏季大学生海外短期宣教旅行に同伴してもらいました。

外国に出て、そこの貧しい人たち、難しい環境に置かれている人たちに熱心に伝道し、イエス・キリストを証しし、あれこれと助けを施してから帰国する飛行機の中で、その姉妹さんはどんなに心が満足であるか表現できないほどに幸福感に満たされました…、と言うのを聞きました。

「テモテへの手紙 第一 6章18節〜19節」に、『また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』と記録されています。隣人に助けを施すとき、まことの喜びが臨みます。ですから、私たちが隣人を愛すると言うことは、隣人に助けを施し、与えることなのです。

そして、隣人と重荷を負い合わなければなりません。「ガラテヤ人への手紙 6章 2節」に、『互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』と記録されています。

「ヘブル人への手紙 6章10節」に、『神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。』と記録されています。神様も覚えてくださるのです。コルネリオの施しと愛をご記憶なさって、ペテロを遣わされてコルネリオとその全家族を救われ、聖霊を与えられました。またドルカスの多くの良いわざと施しをご記憶してくださって、彼女が死んだときにペテロを遣わされて生き返らせてくださったのです。

神様は、ご記憶してくださる神様なのです。私たちが良いわざをし、施しをしながら隣人を愛するとき、自分も幸福になり、他人も幸福になるのです。しかし、隣人を利用の対象とだけ考え、自分個人の利益だけを図るために暮らすとしたら、この人は自分も不幸であり、隣人も不幸にするだけなのです。

ですから皆さん、結論的に、律法主義で暮らす人になってはならないのです。自分だけが正しいと思う人になってはならないのです。いつも他人と比較して競争する人になってはならず、おおよう(大様)でない人になってはならず、他人を信じることができない人になってはならず、そして、隣人を愛することができない人になってはならないのです。

今日、この私の説教をお聞きになりながらも、向こうのあの人を指して言うことなのだ…、それは誰々のことなのだ…、あのことは何々牧師を言うことなのだ…、あのことは隣の教区の長老に聞けとして言われることなのだ…、私のことではない…とお考えなさるとしたら、それは本当に直すことのできない「痼疾病患者」です。このような心の持ち主は「不幸創造者」です。このような人は、自分も不幸であり、他人も不幸にする人です。今日の私の説教は、すべての人に適用する内容です。みんなが胸を開いてこの説教を受け入れ、主にあって変化されなければなりません。

そうでない人は、自分も不幸であり、他人も不幸にする人です。このような人格的な欠陥は、主の前で必ず祈り、悔い改め、直そうと努力しなければなりません。自分自身が変化されれば、他人が変化されます。隣人にしきりに変化されなさいと言わずに、自分が変化するように努力しなければなりません。

「ヨハネの手紙 第一 3章21節〜23節」に、『 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。』と記録されています。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! 私たちは誰彼問わずに皆が咎がある人生です。天のお父さま! 主の御前に立つとき、私たちは全身傷だらけであり、汚れた雑巾と同様です。

全知全能であられる我が神様! 父なる神様が御言葉と聖霊で私たちを変化させてください。悔い改めるように助けてください。父なる神様の前に正しい人となって、天のお父さまも幸福であるようにして差し上げ、夫にも、妻にも、子どもたちにも、隣人にも、幸福をもたらす人格者となるように導いてください。

行く所、至る所に不幸をもたらす人間とならないように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!