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「神の祝福と幸い」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第二 9章 6節〜15節」
9: 6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
9: 7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
9: 8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9: 9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
9:12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。
9:13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。
9:14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。
9:15 ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。




今日、私は皆さんとご一緒に『神の祝福と幸い』と言う題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

収穫感謝祭の週間は、神様の祝福と幸いを考えてみる週間です。我が国は、今年も数多い水害と暴風雨に遭ったのにもかかわらず、驚くほどの豊年の収穫を得ることができました。我が国のお米の生産量は526万3千トン、北朝鮮のお米の生産量は152万3千トン、到底比較することができません。北朝鮮の凶作と餓えを思うとき、神様が大韓民国の民たちに与えてくださった、その祝福とお恵みに私たちは無限に感謝せざるを得ません。

人間がいくら計画を立てて努力しても、天が時に適った太陽の光を照らしてくださり、雨を降らしてくださらなければ、人間の努力が無効になると言うことを私たちはあまりにも良く知っています。私たちの人生は、一生のあいだ種を蒔き、そして刈り取ることを継続します。良い地に良く種を蒔いて熱心に耕せば、刈り取る収穫も多くなるのです。

「創世記 8章22節」に、『地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。』と記録されています。

「コリント人への手紙 第二 9章 6節」には、『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。』と記録されています。この原理は、人間生活全般にわたって作用する宇宙的な法則なのです。




第一、良い地に種を蒔いてこそ、神様が祝福してくださいます。

第1番目に、良い地に種を蒔いてこそ、神様が祝福してくださることができます。イエス様は、「マタイの福音書 13章」に、種蒔きの喩えを話してくださいました。道ばたに蒔かれた種があり、岩地に蒔かれた種があり、いばらの中に蒔かれた種があり、良い地に蒔かれた種がある、と言われました。

道ばたに蒔かれた種は、鳥が来て食べてしまったと言われました。「マタイの福音書 13章19節」に、『御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。』と記録されています。

世俗の罪悪で心が頑なになった人、そして神様のお恵みと天の御国に対してまったく関心がない人、このような人にはいくら神様のお恵みと祝福の種が蒔かれても、悪魔が来て神様のお恵みと祝福をみな奪い取って行き、その人には何のお恵みも祝福も臨みません。このような道ばたみたいな心を持ってはどんなに努力しても、その人には神様の恵みや祝福は臨まないのです。

岩地に蒔かれた種は、土の薄いところに蒔かれたので、花の芽は出しますが根を下ろすことができず、日が上ると焼け枯れてしまいます。「マタイの福音書 13章20節〜21節」に、『また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。』と記録されています。

これは、深く悔い改めない人を言うのです。イエス・キリストを救い主として受け入れて、信仰を持つようにはなりましたが、心の中を深く鋤き返すことができず、深く悔い改めることを知りません。形式的に悔い改めるだけの人を言うのです。それで信仰が深くなく、とても薄っぺらな信仰の持ち主となります。このような人は信仰を実践しません。主日も聖く守りません。十分の一も捧げず、御言葉も読んだり止めたりします。

このような人は信仰に恒久性がない人です。このような人は、難しい試みに会ったらすぐに信仰を捨ててしまいます。薄い心の種、これは種が育って芽は出しますが、根が下ろされていないので試みや患難が迫って来たら直ぐに信仰を放棄してしまうのです。

いばらの中に蒔かれた種は、芽を出すやいばらがふさいでしまってすぐに枯れてしまいます。「マタイの福音書 13章22節」に、『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』と記録されています。このような人は、神様よりも自分を愛する人なのです。

教会に出席はしますが、神様を利用しようとして出て来るのであって、真実に神様を信じ、仕え、喜びにあずかるがために出て来るのではありません。手段方法構わずに、神様を自分の生活の目的に利用しようとする人です。このような人は欲望と貪欲で心がいっぱいですので、偶像崇拝の罪を犯します。欲望と貪欲に向かってひれ伏し、神様をいたずらに欲望と貪欲の供え物にしようとします。このような人たちは、神様の御前で祝福していただくだけの心の基礎ができていないのです。

「良い地」になった心と言うのは、「マタイの福音書 13章23節」に、『ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。』と記録されています。このような人は、心の中で世俗と罪悪を砕いて主の下に立ち返った人です。道ばたのような心を一切鋤き返してしまって、そして神様のお恵みを慕いながら、主に立ち返った人なのです。

このような人は深く悔い改めて、心を本当に掘り返した人なのです。ですから、心の不従順のくつわ(轡)をすべて取り捨てて、そして不信仰の砂利をみな取り除き、聖書の御言葉と聖霊のお恵みを心深く受け入れた人なのです。「ヨハネの福音書 7章38節」に、『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』と記録されているように、聖霊で充満に満たされた人を言うのです。

「詩篇 1篇 1節〜3節」に、『 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』と記録されているように、この人は神様を熱く愛し、神の国とその義とを先ず第一に切に求める、そのような心を言うのです。

「マタイの福音書 6章33節」には、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と記録されています。「ローマ人への手紙 1章17節」にも、『なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。』と記録されています。

このような心の基礎に、人生の夢である種を蒔かなければならないのです。私たちはこの世を生きながら色々な夢を見ます。その夢の種を「良い地」に蒔かなければならないのです。心が「良い地」となってこそ、神様が祝福を与えて下さることができるのです。

「申命記 28章 2節〜6節」に、『 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。 あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。 あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。』と記録されています。

「ガラテヤ人への手紙 6章 7節」に、『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』と記録されています。ですから、私たちが良い地に真心を込めて丁寧に蒔いてこそ、神様がみわざを働かせてくださるのです。心が道ばたの畑であったり、砂利だらけであったり、いばらの畑であったりしては、神様が祝福してくださることができないのです。心が荒地のようであるとしたら、そこに種を蒔いたとしてどうして立派な実を結ぶことができるでしょうか。

北朝鮮の社会のような共産主義の荒地に彼らがいくら種を蒔いても、神様は祝福してはくださいません。それで皆さん、共産主義社会がみな崩れてしまったのです。ソ連と共産主義社会が神様に敵対し、反逆しながら、道ばたの畑のようになって無関心になり、砂利畑になり、いばら畑になった彼らの心に、どのような種を蒔こうがその種は実を結ぶことができないのです。私たちの心が「良い地」にならなければならないのです。




第二、良く世話し、顧み、育てる生活

第2番目に、このように良い地になって私たちが種を蒔いたなら、良く世話し、顧み、育てる生活を営まなければならないのです。種を蒔いた後には水を注がなければなりません。水を注がなかったら種が成長することができないのです。聖霊さまのお恵みと充満に臨んでくださるみわざがあってこそ、必ず神様のお恵みが私たちの生活の中に満ち溢れるようになるのです。

「コリント人への手紙 第一 3章 6節」に、『私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。』と記録されているのです。種を蒔いた後には水を注いで上げてこそ、神様が成長するようにしてくださるのです。ですから私たちは、心に種を蒔いて、水を注がなければならないのです。私たちは切に祈って聖霊充満にあずかり、いつも聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れて、聖霊さまのお導きをいただきながら生きて行かなければならないのです。

そして、太陽の光に照らされなければなりません。感謝と賛美と肯定的な生活態度で暮らさなければならないのです。私たちの心が否定的になって、いつも怨み、不平を呟き、嘆き、挫折したら、これは雲にさえぎられた空と同じです。このような人には太陽の光に照らされないので、いくら種を蒔いても、それは成長することができません。

神様が、私たちに祝福を与えてくださるためには、私たちの心の中に神様に対する感謝と賛美、そして肯定的で積極的で創造的であり、また生産的な、そのような思いと考えでいっぱいになっていなければならないのです。怨みとか不平とか嘆きとかはつまらないごみの山を築きます。自分の胸にごみの山が築かれたら、そこにはどんな種を蒔いても育つことができません。

ですから、私たちがいつも注意しなければならないことは、怨みと不平と嘆きと非難など、このようなすべての否定的なものは一切捨て去って、神様に感謝し、神様を賛美する心と、いつも肯定的で積極的であり、明るく、清く、期待と希望で満ち溢れる心の基礎ができていてこそ、私たちは神様から祝福していただくことができるのです。私たちが種を蒔いた後に、水を注いで上げず、太陽の光が照り輝かなかったら、蒔いた種はみな死んでしまうのです。

その次に、種を蒔いたなら肥料をやらなければなりません。ここで言う肥料とは、御言葉の勉強と研究のことです。御言葉の肥料は、私たちの信仰が成長するようにしてくれます。そして、蒔いたすべての種が充実に育つようにしてくれるのです。「マタイの福音書 4章 4節」に、『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』と記録されているのです。

「ローマ人への手紙 10章17節」にも、『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』と記録されています。御言葉を聞き、口ずさみ、そして心の中に積み込んで置けば、これが私たちの信仰に肥料の役割をするのです。私たちの人生に栄養分となるのです。私たちが蒔いた種が立派に成長することができるように、根を強くし、栄養を供給するようになるのです。

また私たちは、信仰を成長させる中で病虫害を防がなければなりません。悪魔と悪霊の妨害を追い払わなければならないのです。私たちの毎日の生活の中に絶えず悪魔と悪霊が近づいて来て、私たちに怨むようにし、不平を呟くようにし、紛争を起こすようにします。そして気落ちさせ、後ろに退くようにするなど、数々の病虫害作用をするのです。

「ヤコブの手紙 4章 7節」に、『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』と記録されています。また「ペテロの手紙 第一 5章 8節〜9節」に、『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』と記録されています。

私たちの心に平安がなく、いつも不安と焦燥で満たされるようになったら、このような人は祈ることもできず、御言葉を読むことも止めるようになり、伝道もすることができなくなります。人は心の中に神様の平安で満ち溢れるようにならなければなりません。

また、心に悲しみと憂鬱が襲って来たら喜びがありませんので、生活の活力が消滅するようになります。このような人は早く心の悲しみや憂鬱を追い出さなければなりません。また、心に甚だしい嫉妬と怒りがあって、人たちを批評し、非難し、攻撃するようなことをしたら、その心の中から愛が去って行きますので、信仰が働くことができず、神様が祝福してくださることができません。

このような、邪悪であくどい毒をもたらす敵悪魔と悪霊を、私たちはイエス様の御名によって絶えず追い出さなければならないのです。私たちが世の中で暮らしながら、ちりとあくだが身につくので毎日シャワーを浴び、風呂に入らなければならないのと同じことです。私たちの生活の中には、このような悪魔の攻撃と悪霊の仕業がしょっちゅう襲って来ます。聖書に「盗人が来るのは、盗み、殺し、滅亡させるだけのためです。」と記されています。

私たちは無関心に過ごしておりますが、毎日のように悪魔と悪霊たちが群れをなして私たちに近づいて来ては、私たちから喜びを奪い、希望を奪い、信仰を奪い、平安を奪い、愛を奪って行こうとしているのです。ですから、憎しみが入って来ようとするときにはイエス様の御名によって退かせなければなりません。不安が襲って来るときにも、挫折と絶望が心に入って来ようとするときにも、私たちはイエス・キリストの御名によって追い出さなければならないのです。

紛争が入って来るときにも、イエス様の御名によって退かせなければなりません。否定的な心もナザレ・イエス様の御名によって追い出さなければならないのです。そうしなかったら、悪魔に捕らわれて、油虫に食いつかれた野菜が生気をみな失って萎れて行くように、私たちの信仰と生活の活気を奪われて、間違ったら私たちは悪魔の道具に成り果ててしまうようになるのです。ですから私たちには、信仰を育んでいくことが本当に重要なのです。




第三、刈り入れる時

そして第3番目に、私たちが収穫を刈り入れるようになるときには、必ず、神様の分である「十分の一」を区別して捧げなければなりません。

聖書「マラキ書 3章10節〜12節」に、『 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・ すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。』と記録されています。

私たちはなぜ、必ず神様に十分の一を捧げなければならないのでしょうか? 神様が私たちと共に働いてくださったからであり、また私たちが神様と同業していると言うことを宣布する意味もあります。私たちが神様に十分の一を捧げることは、私たちが自分ひとりで暮らしているのではなく、神様と同業しながら暮らしていると言うことを証明するためであり、また神様のものを神様に捧げるだけのことなのです。そうして神様がみわざをなしてくださったことを宣布するのです。

神様がみわざを施してくださって、お恵みと愛と祝福で繁昌するようになったことを宣布するものです。そして十分の一を捧げることによって、神様を畏敬し、謙虚な心を示すようになるのです。高慢になって、自分の力で、自分の知恵と自分の手段方法で収穫を得たと言うのではなく、謙虚になって、神様が祝福してくださったことに感謝する態度なのです。

また、十分の一を捧げることによって、神様のものを盗まなかったと言うことを告白するようになるのです。ロックフェラーはアメリカの巨大な富豪でありました。しかし彼は貧農の家の出身で、6歳のときから母親から貰った20セントの中から十分の一を捧げ始め、彼の年92歳のときにこの世を去るときまで、彼は十分の一を捧げました。母親からいただいた信仰の遺産が偉大であったために、事業のあらゆるビジョンを祈りの中で授けていただき、十分の一でそのお恵みに答え、「十分の一を捧げて、私はこのような富豪になれた。神様に感謝することを知らない人は富むことができない。」と彼は言いました。

アメリカのハイディーと言う有名な富豪は、一時事業に失敗して全財産をなくし、彼の手には何も残らなくなりました。ところが再び事業を始めるために10万ドルを借金して、その中から十分の一である1万ドルを神様に捧げました。会社の職員たちがそれを知って、「偽善者…。」「経営倫理に合わない、いい加減な人間だ…。」と陰口をたたきました。

彼は、「会社がうまく運営できたときに、神様のものを無数に盗んだので、このように滅んだのだ。もう悔い改めて、神様のものは負債を背負いながらも十分の一として捧げなければならない…。」と言いました。ところが神様が彼を祝福してくださって、再び事業に大成功しました。彼は徹底的に献金と救済をしたお蔭で、幸福で余裕ある末年を送ることができたと言います。

私たちの第二聖殿に出席している姉妹さんですが、彼女は北朝鮮で主体思想を講演しているうちにそれに失望して、家族と共に中国に避難し、そこから韓国に来ることができたお方です。旦那さんは韓国に来てから脳ガンでこの世を去り、彼女は子どもたちと一緒にあつちこっちを転々しながら凄く苦労しました。ところが教会に来てイエス様を信じるようになり、そして定着金を貰ったその中から神様に十分の一を捧げ、そうした後からは平安を得て、熱心に祈り、熱心に働いたお蔭で今は生活に安定を得ており、毎日喜び溢れる中で生活することができるようになった、と言う証しをしまました。

私たちが刈り入れをしたら、必ず収穫の中から神様に十分の一を捧げなければなりません。それは神様と共に暮らし、神様から祝福していただき、継続して神様のお恵みに豊かにあずかることができる基盤を築くようになるのです。感謝のいけにえを捧げることを、神様は喜ばれるのです。「詩篇 50篇23節」に、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』と記録されています。

勿論、私たちは神様に対する感謝を言葉でも表現しなければなりません。「詩篇 100篇 4節」に、『感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。』と記録されています。また「詩篇 23篇」には、『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』

とあります。私たちが口で感謝しなければならないのは言うまでもありません。祈りを通して感謝し、賛美で感謝し、くちびるで神様に感謝を溢れるまでに捧げなければならないのです。

感謝は、神様に捧げる香ばしいいけにえであり、怨み言や不平や嘆きは、神様に差し上げる煙であり、ごみのようなものなのです。神様は、怨み言を言い、不平を呟き、嘆いたりする人からは離れて行かれます。しかし、感謝の香ばしいいけにえを捧げる人には、いけにえを捧げるその場に神様が御座を設けて共に居てくださるのです。ですから、私たちはくちびるを通して神様に多くの感謝を捧げなければなりません。

そうした後には、私たちはまた、行為を通して神様に感謝をしなければならないのです。「箴言 3章 9節〜10節」に、『あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。』と記録されています。私たちはもっとも良い、最上のものを持って神様に感謝しなければならないのです。

ある人たちは祈るときに、「神様!主が与えてくださったものを使ってしまって、僅かですが残ったものを差し上げます…。」と言います。神様は乞食ではありません。使ったあとに残ったものを差し上げると言うことは、全く不遜な行為です。自分が使う前に、一番良いものを神様に真心を込めて差し上げてこそ、感謝のいけにえになるのです。

なぜ、主日に礼拝を捧げるのでしょうか?主日はその週の初日です。その週の初日である主日に私たちは時間をかけて神様にいけにえを捧げるのです。物質もそのように捧げるのです。朝も、まず最初の時間に、起き上がったらすぐに私たちは神様の御言葉を読み、祈り、そして感謝しなければなりません。そのように私たちは行為を通して神様に感謝を捧げなければならないのです。

皆さん、聖書「詩篇 96篇 8節」に、『御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。』と記録されています。聖書には、主の前に出て来るときは素手で出て来てはならない、と記されています。必ず感謝の捧げ物を持って、主の大庭にはいれと言われているのです。このようにして私たちが神様に仕えたら、神様は蒔いたものの30倍、60倍、100倍の収穫を刈り取るようにしてくださるのです。

必ず物質だけを蒔くのではありません。皆さん、私たちの中のある人は科学者になり、ある人はお医者になり、ある人は政治家になり、ある人は軍人になります。私たちの人生には夢があります。その夢がみな、小さい信仰の種となって心に蒔かれ、神様が祝福してくださってその夢が花を咲かせるようになるのです。それで私たちは、夢の種を蒔く前に心をきよめ、治めなければならないのです。

神様の御前で人間の人生の成功と失敗は、その人の心の持ち方によるのです。聖書に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」と言われました。私たちの信仰の畑に、私たちの人生の種を蒔いて育むのです。神様は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできるお方です。ですから神様のまえに、私たちの人生のどんな夢の種でも蒔く前に先ず、心を「良い地」にしなければならないのです。

心が道ばたのようであっては、神様が祝福してくださいません。薄い岩地のようであっても、神様は祝福してくださいません。いばらが生え茂っているような心の持ち主にも、神様は祝福してくださいません。無関心の道ばたを整理し、薄い岩地のような不信仰を深く掘り起こし、すべての欲情と貪欲を取り除き捨て去って、私たちの心が「良い地」とならなければならないのです。

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして主に仕える「良い地」となったそこに、私たちが種を蒔いて育んで行かなければならないのです。私たち人生の種を育んで行くのには、いつも私たちは水を注いで上げなければならず、聖霊の満ち溢れる生ける水を与えなければならず、また私たちの心の中に太陽の光が照るようにしなければなりません。

不正と気落ちと挫折の雲を取り除いて、肯定的で積極的で創造的な美しい、そのような心を持たなければなりません。そして、私たちの生活の中にいつも御言葉を読むことによって栄養分を供給しなければなりません。また、病虫害を防備するために否定的な敵悪霊たちを絶えずイエス様の御名によって追い出さなければならないのです。このようにして育んだ後に、私たちは刈り取るようになります。

刈り取ったものの中から、私たちが最上のもので神様に栄光と賛美をお返しし、十分の一を捧げて、神様の光を現したら、我が神様は喜んでくださって、もっとたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても満ち溢れるまでに得るようにしてくださるのです。

この地球がなくなる前には、種を蒔き刈り取ることと、春と夏と秋と冬が継続するであろうと神様は仰せられました。ですから私たちは、毎日毎日蒔かなければなりません。そして私たちは毎日毎日過去に蒔いたものを刈り取るのです。聖書は言われます。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」と。

思いで蒔き、言葉で蒔き、行為で蒔くのです。今日蒔いたものを明日刈り取り、昨日蒔いたものを今日刈り取ります。自分が蒔いたものを自分が刈り取るのです。上手く蒔いたら良いものを刈り取り、間違ったものを蒔いたら悪いものを刈り取ります。何事も他人の所為ではないのです。

ですから私たちは、主の御前で善良な心の良い種を蒔いて、育み、まことにいのちを得るにしても溢れるように得る祝福を刈り取らなければならないのです。人生を暮らしながらもっとも偉大な種は、我が主イエス・キリストのいのちの種です。イエス様は私たちに永生の種となられるのです。私たちの心の中にイエス・キリストを蒔けば、その中から永生の実を刈り取るようになるのです。

人たちは、この世で人間の哲学とか倫理とか道徳とか宗教などを蒔きます。そうしたところで、それらは雑草にしかなりません。天から下って来て、私たちの為に十字架に釘付けられ、身を裂き血を流して死んでからよみがえられたイエス様を蒔いたら、彼を通して、私たちは罪に勝ち、この世にも勝ち、心配・懸念・不安・焦燥・絶望にも打ち勝ち、そして呪いにも勝って、死を滅ぼした美しい永生の実を刈り取るようになるのです。

何よりも私たちは、イエス様を私たちの心の中に蒔いて、天国と永生を刈り取る私たちとならなければならないのです。




お祈り

愛であられる、聖き我が天の神様! 私たちは収穫感謝祭のシーズンを迎えるとき、今日、この時間、穀物を刈り取ったことだけで感謝するのではなく、私たち人生の暮らしに信仰、希望、愛、義と平和と喜びと幸福を刈り取ることができましたことを、神様に感謝しなければならないのです。

全知全能であられる、天のお父さま! 私たちの人生は、毎日毎日、過去に蒔いたものを現在において刈り取り、現在において蒔いたものを未来に刈り取るようになります。我が父なる神様!私たちが、私たちの夢を蒔くとき、良い地に蒔くことができるように助けてください。

そして、私たちが毎日毎日、信仰を立派に成熟させて行けるように助けてくださり、刈り取って得たものの中から最上のものだけを選りとって、神様の御前に感謝と賛美のいけにえとして捧げ、益々、神様から祝福していただくことができる基盤を築いて行けるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!