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3月17日


■私たちはどのような供え物にならなければならないか?

「申命記 12章 5節〜7節」
12: 5 ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

12: 6 あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。
12: 7 その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。




旧約時代のイスラエルの民たちは、獣をほふって神様に供え物として捧げました。しかし新約時代に入って来てから、使徒パウロは、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ12:1)と諭しました。これは、私たちが神様に捧げる供え物はまさに私たち自身であることを悟らせます。それでは、神様は私たちがどのような供え物になることを願っておられるでしょうか?


第1番目に、神様は、私たちが「愛の供え物」になることを願っておられます。「申命記6章5節」に、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』と言われました。私たちは、心の中にあるあらゆる種類の憎悪、妬み、恨み…などを悔い改めることによって私たち自身を砕く時、神様の御前に愛の供え物として捧げることができるのです。


第2番目に、神様は私たちが「信仰の供え物」になることを願っておられます。聖書に、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(ヘブル11:6)と記録されています。従って、私たちは私たちの人間的な理性と感覚を、信仰の祭壇の上に置いて砕いてしまわなければなりません。


第3番目に、神様は、私たちが「義の供え物」になることを願っておられます。「ローマ人への手紙6章13節」に、『また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。』と言われました。私たちが「私たちの義」となられたイエス・キリストを心の祭壇に迎え入れて、不信仰と疑いを砕き、悔い改める時、私たちは神様の御前に「義の供え物」になることができます。


第4番目に、神様は、私たちが神様の御前に「生きた供え物」になることを願っておられます。「ローマ人への手紙12章1節」に、『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』と言われています。


言い換えれば、神様は、私たちの感情、理性、意志、自分の家庭、そして、自分の命までも捧げて、神様に栄光をお帰しすることを願っておられるのです。イエス・キリストが神様に生きた供え物となられて、神様の御心を成就なされたように、私たちも神様に捧げられる生きた供え物となり、神様から喜んでいただける人生を生きて行かなければなりません。




お祈り

私たちを愛してくださり、救ってくださった、父なる神様! イエス様が神様と私たちの間の和解のいけにえになられ、そのお恵みにより、私たちが神様の祝福をいただいて生きて行けるようにしてくださって、有り難うございます。私たちも、イエス様が喜んで受け入れられる「生きた供え物」になることを心から願っています。私たちの体と心が、神様に捧げられる供え物となり、神様に喜んでいただける家族たちとなれるように助けてください。 イエス様の御名によりお祈り申し上げます。アーメン!