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8月9日


■復活の信仰を持っている人の特徴

「ヨブ記 19章25節〜27節」
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。




私たちは本文(奉読箇所)を通して、ヨブが復活に対する希望を持っていたということを知ることができます。復活の信仰は、新約の時代に強調された福音の核心です。ところが、驚くべきことには旧約時代の人物であるヨブが、この復活の信仰を持っていました。

ヨブは、今まで自分が受けている苦難が、悪人が受ける苦難とは根本的に違うということを主張しました。そして、自分を贖う方が生きておられるから、苦難によって肉体が腐ってしまうとしても、肉の外で神様にお会いすることになるとの復活の信仰を告白しました。私たちはヨブのこの告白を通して、復活の信仰を持っている人の特徴が何であるかを知ることができます。

ヨブは、復活を可能になさる贖い主が生きておられる、ということを信じました。彼はこの信仰によって、現在自分が受けている苦難に勝ちました。ヨブの場合から見られるように、復活の信仰を持っている人は、贖い主が生きておられることを信じて、どんな苦しみにも打ち勝つのです。

また、ヨブは、神様を外人のように見ません、と言いました。これは、神様にお会いする時、神様を外人を見るようにしない、ということです。復活の信仰を持っている私たちは、神様の御恵みによって、将来、栄光の体を着ることになる時、罪人でない、神様の子供として主と顔を向かい合わせるようになり、また、その時には、主が私たちを完全にご存知であることと同じく、私たちも完全に神様を知るようになるのです。

「コリント人への手紙13章12節」を見ますと、『今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。』と記録されています。

そしてヨブは、神様にお会いした心が、絶え入るばかりだ、と言いました。「絶え入るばかり」という言葉は「もう衰える、もう疲れる」という意味を持っています。ヨブは神様を慕う心のために衰え、やつれたのです。復活の信仰を持っていたダビデも、神様を慕い喘ぎましたし(詩篇42:1参照)、神様を待ちわびて目が衰え果ててしまいました(詩篇69:3参照)。

このように、復活の信仰を持っている人は、どんな苦しみの中ででも、贖い主であられる神様が生きておられることを信じ、将来、復活の体を着るようになる時、神様にお会いすることを信じて、いつも神様を慕う人たちであるのです。




お祈り

聖なる、わが神様!

数多くの人々が道を失い、さまよいながら生きています。しかし、私たちはさまよう必要がありませんので、神様に感謝申し上げます。イエス様が私たちの道であり、命であるからです。私たちの家族がヨブのように、復活の信仰を持って生きて行けるように助けてください。

イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン!