■お祈りと御答え
「エペソ人への手紙 3章:14節〜21節」
3:14
こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20
どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21
教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。
大多数の人々は、自分を卑下する考え方をします。それで「神様が、私のような人間も愛してくださるだろうか?」と思います。イスラエルの偉大な指導者であるモーセも、一時はこのような考えを持っておりました。彼はエジプトの王子のような身分であり、覇気に満ちていた40歳の時、自分の民族の一人に味方する中で殺人を犯してしまい、ミデヤンの荒野に逃げて行って、そこで40年間を羊飼いとして過ごしました。
そうした或る日、モーセは柴の中の火の炎の中から自分を呼ばれる神様に会いました。その後、勇気を得たモーセは、自分が荒野の柴の枝のように見る影もなく、何の価値もないと思っていた考えを振り捨てて、神様に拠り頼み、イスラエルの民たちを乳と蜜の流れるカナンの地に導く、民族指導者となることができました。
荒野のモーセにみわざを働かしてくださった神様は、私たちのためにもみわざを働かしてくださいます。神様のみわざは、私たちの祈りを通して現れます。私たちが神様に向かって祈ることは、ちょうど水を得るために水源地にパイプを連結するのと同様です。水源地にパイプが連結されなかったら、水道の水が出ないのと同じく、祝福の根源であられる神様に祈り求めなかったら、祝福をいただくことはできません。
聖書に、『あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。』(ヤコブへの手紙4:2参照)と記録されています。私たちの祈りがなかったら、神様のみわざは現れないのです。
また神様は、私たちの思うところ、願うところに従ってみわざを働かしてくださいます。聖書は、神様に対して『私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方』(エペソ人への手紙3:20)であると記録しています。私たちが、神様に“成功”を祈り求めた後に“失敗”を心配し、“健康”を祈り求めた後に“病気の体”を思うとしたら、決して成功も健康も得ることができません。ですから、私たちが神様に求め祈ったことに、私たちの考えを一致させなければならないのです。
また、私たちが熱い希望をもって神様に祈り求めたことは、既に答えていただいたと信じなければなりません。このような信仰の姿勢になる時、神様は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに祝福してくださるのです。
お祈り
私たちの傍にいつもおられる、愛であられる、わが父なる神様!私たちの祈りに答えてくださり、豊かにすべてを満たしてくださる神様に感謝申し上げます。私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施してくださる神様に、益々もっと感謝する私たちとなるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!
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