■生きて動く聖殿
「サムエル記 第二 7章:1節〜5節」 7:1
王が自分の家に住み、主が周囲の敵から守って、彼に安息を与えられたとき、 7:2
王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」
7:3
すると、ナタンは王に言った。「さあ、あなたの心にあることをみな行ないなさい。主があなたとともにおられるのですから。」
7:4
その夜のことである。次のような主のことばがナタンにあった。 7:5
「行って、わたしのしもべダビデに言え。主はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。
ダビデは、自分は杉材で建てた家に住んでいるのに、神の箱は今も天幕の中にとどまっているといことで心が痛みました。神様がお住みになる宮を建てず、さきに自分が住む宮を建てたことが、あまりにも恐縮千万であったのです。それで、ダビデは神様の宮を建築すべく念願を抱くようになりました。
旧約時代には、神様が人各々に聖霊として臨んでおられず、幕屋とか、または神殿のような特定の場所に居られました。しかし、五旬節の日の聖霊降臨事件以後には、神様の霊である聖霊様が、人々各々の体を聖殿として留まっておられます。それで聖書は、『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』(コリント人への手紙第一
3:16)と言っておられるのです。
私たちが罪を犯したのにもかかわらず、愚か者であるのにもかかわらず、捨てられて当然であるのにもかかわらず、罪を犯したそのまま、素手であるそのまま、主の前に出て行ったら、主が十字架の血潮で洗い清めてくださり、永遠の命を与えてくださり、私たちを聖殿として私たちの中に入って来られて、とこしえまでも離れ去って行かれないのです。
こんにち神様は、人間の手で建てた大理石の建物の中に留まっておられず、肉で造られた神様の子たちの心の中に聖霊として来られて留まっておられ、祈る人々を通してみわざを働かしてくだします。従って、神様のご住所はまさに私たち自体であり、私たちがまさに生きて動いている神様の聖殿であるのです。
お祈り
私たちを造られた、父なる神様!
私たちの体を聖殿として、聖霊様が私たちの中に留まって居られる神様を賛美します。
私たち家族全部が、主の所有となるなるようにしてくださり、私たちがみな、聖霊様の道具となるように助けてください。
イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン!
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