■私たちの信仰が堕落する時
「列王記 第二 16章:10節〜14節」 16:10
アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。
16:11 祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。
16:12 王はダマスコから帰って来た。その祭壇を見て、王は祭壇に近づき、その上でいけにえをささげた。 16:13
彼は全焼のいけにえと、穀物のささげ物とを焼いて煙にし、注ぎのささげ物を注ぎ、自分のための和解のいけにえの血をこの祭壇の上に振りかけた。 16:14
主の前にあった青銅の祭壇は、神殿の前から、すなわち、この祭壇と主の神殿との間から持って来て、この祭壇の北側に据えた。
ユダの王アハズは、アラムとイスラエルを攻めるために、アッシリヤに助けを乞おうとしてダマスコに行きました。そこである祭壇を見てから、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送りました。祭司ウリヤは、王が送ったものそっくりの祭壇を築き、王は帰って来てその偶像の祭壇をエルサレム神殿の青銅の祭壇と取り替え、そこで全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげました。私たちは祭司ウリヤの堕落した信仰を通して悟るべき教訓があります。
まず、祭司ウリヤは神様を恐れる心がありませんでした。神様の聖殿で、神様にいけにえをささげる任務を委ねられている祭司が、偶像の祭壇を神様の聖殿に入れることに賛成し、それを助けたということは、神様を畏敬する心が全くなかったと言うことを物語っているのです。ウジヤ王の時、祭司長であったアザルヤは、王が祭壇で香をたこうとするのを命をかけて制止した、忠実な祭司長であった反面、本文(奉読箇所)に出る祭司長ウリヤは、かえって王を助け、偶像崇拝を助長したのです。
また、「列王記第二16章16節」を見ると、『祭司ウリヤは、すべてアハズ王が命じたとおりに行った。』と記録されています。ここで私たちは、祭司ウリヤが権力者の前では無条件に盲従する、あやつり人形のような祭司であったことを知ることができます。もちろん、祭司が王の命令に従うことは間違いではありません。しかし、従うにしても、主にあって従うべきなのです。私たちが父母に従うのも、「主にあって」両親に従いなさい(エペソ人への手紙6:1)と、聖書に言われているのです。
私たちは、ある人にとか、ある団体に盲目的に聞き従ってはいけません。それが神様の御心にかなうことか、どうかを確かに分別してから行う、成熟したクリスチャンとならなければなりません。従って、私たちの心の中に、神様を恐れる心と、主にあって従順に聞き従う心が消え去らないように、常に目をさましていなければならないのです。
全能なる、わが父なる神様!
世の中の誘惑に惑わされないように、天の知恵と明哲を増し加えてくださり、明晰な分別力を持つことができるように助けてください。そして、私たち家族一同がどんな状況に置かれても、神様にだけ仕える家庭となりますように助けてください。
イエス様の御名によりお祈り申し上げます。アーメン!
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